どういう話の流れだったか忘れてしまったが、あの日青山さんが孝太郎さんに 「彼女のために料理くらい作れて当たり前だろ、愛想つかされるぞ」なんて言って以来、孝太郎さんに謎の火がついてしまった。
今まで料理になんて微塵も興味を示さなかったというのに、突然大量の食材を買い込んで来て、酒とつまみと栄養剤程度しか入っていなかった孝太郎さんの家の冷蔵庫がパンパンになった。今日はその食材を使って二人の夕飯を作るらしいのだが。
こっそりとキッチンを覗くと、冷蔵庫を開けたまま硬直している孝太郎さんの後ろ姿があった。
「孝太郎さん、料理できるんですか?」
「料理なんて化学と同じだ」
果たして本当にそうだろうか。そりゃ、理屈で言えばそうだけど。
「包丁握ったことあるんですか?」
「馬鹿にしないでくれ、メスなら毎日握ってる」
メスと包丁はかなり違う気がするが。
「皮を薄く剥ぐのは自信あるよ」
「それなら魚をさばいてみるというのはどうですか」
「魚は買ってこなかったな……」
冷蔵庫の中をがさごそと掘り返して、最終的に孝太郎さんが取り出したのは鶏肉と卵だった。脇の野菜ケースからは玉ねぎを取り出す。……オムライス?
いきなり高難易度を目指そうとするあたり、孝太郎さんらしいといえば孝太郎さんらしい。
「オムライスですか?」
「和食だよ」
「…………親子丼!」
「あたり、さすがナマエだね」
どっちにしろ難易度高めの料理である。
「難しくないんですか?」
「素材の温度と火の強さ、鍋の厚みと気温、まあ要するに火が入る速度さえ気をつければ問題ないだろう、親子丼なら」
「そう、なんですかね」
確かにそれっぽいが、果たしてそれが本当かどうかなんて私には難しくてわからない。確かに味付けした出汁で煮て卵でとじるだけだし、手順だけなら誰でもできそうなものだけど。
孝太郎さんは調理台の上にまな板と包丁とタイマーと…… 赤外線温度計を並べる。
「レシピとかあるんですか?」
「ああ、先日夏目に紹介してもらった料亭の親子丼の味を分析しておいたんだ」
「それは……」
レシピというのだろうか?
というか、それは軽く窃盗的な犯罪の香りすらするのだけど、まあ商品化するわけでもないし良いのかな。親子丼の出汁を採取して分析している孝太郎さんの姿を考えると、ちょっとおもしろいじゃないか。
そうこうしているうちに手元のたまねぎの皮は綺麗に剥けて、スピードこそ遅めではあるものの均等なサイズにスライスされていった。包丁とメスでは随分勝手が違うと思ったけれど、案外器用にこなすものだ。
よく考えたら孝太郎さんは元々器用なんだった。
「上手……」
「だろう? 樹のやつ、あの時絶対に俺の事を馬鹿にしていたな」
「そんなことないと思いますけど」
「いや、あいつは俺が自宅で研究ばっかりしてると思ってるんだ」
そうじゃないですか。と出かけた言葉を飲み込む。さすが青山さんだ、孝太郎さんの事をよくわかっている。
「この親子丼を食べたあかつきには、盛大に吹聴してくれ」
「難しい要望ですね」
そんなのろけ話なんか誰も聞いてくれないと思う。
まな板の上でぐにぐにと形を変えて切りづらい鶏肉も、孝太郎さんの手にかかればあっという間に一口サイズにカットされた。同じ厚みに切りそろえられた鶏肉に孝太郎さんのこだわりを感じる。
「お肉切るの、私よりずっと上手です」
「毎日メスを握っているから。俺はキミの料理が世界で一番好きだよ」
「そ、そんなこと聞いてません」
孝太郎さんのこういう所、本当に心臓に悪い。突然甘い台詞を吐くのは今に始まったことではないというのに、未だに、いや、これからも、慣れる気がしない。
頬を赤らめる私を置き去りにして、孝太郎さんは独自に分析した“成分表”を見ながら、0.01g単位で測れるスケールに載せたボウルに調味料を注いでいく。
私の知る“料理”とは、おおよそ成分表を見てmg単位に気を配りながら赤外線温度計を使ってまで行うものではなく、孝太郎さんの斬新なそれに目を奪われた。
大さじをテーブルスプーンで代用してしまう私とは真逆のタイプの調理法である。
レシピというよりも行程表と表現するほうが妥当に感じるような所作を続ける孝太郎さんは、ほぼ初めて料理しているとは思えない手際の良さで、あっという間に親子丼を完成させた。
実験慣れしている人は料理も上手なのか…… いや、でもそれだってきっと孝太郎さんの器用さや頭脳があってこそだ。
「できたな」
「すごく美味しそう」
まさに黄金とも言えるツヤツヤとした半熟の卵からは出汁の香りがふんわりと立ち上り、食欲を刺激する。ああ、親子丼なんて久しぶりだもの。それに孝太郎さんが作ってくれた貴重な食事だし。特別感の塊だ。
ふたり分の親子丼をテーブルに運んで、並んで「いただきます」をする。幸せ。
「美味しい!!」
「やはり料理は化学だったな」
「そうかも知れませんけど、元々センスがあるんですよ、きっと」
「主に樹にそう吹聴してくれ」
ふわとろの卵を噛みしめるとじゅわっと広がる旨味がたまらない。また作って欲しいなー、なんて孝太郎さんをチラ見したら、こっちをガン見していたらしい孝太郎さんと目が合う。
「なんですか?」
「たまにはこういうのも良いけどね、でも俺はやっぱりナマエの料理が好きみたいだよ」
「えっ」
「またキミの愛情のこもった料理が食べたいな。自分の作ったものを食べてそう感じるのも変な話だけど」
脳みそを溶かすつもりなんじゃないか。
甘い台詞に意識を奪われてぼんやりしていると、桜色の髪が揺れて頬と唇にキスが降った。黄金の親子丼と目の前の孝太郎さんと、私には選べそうもない。
孝太郎さんは、またもや私の悩みなど置いてけぼりにして、ついばむようなキスを繰り返したのだった。