瀬尾先生の研究のお手伝いの一環として、研究室メンバーに参加するようになり数ヶ月。私はすっかり瀬尾研究室がお気に入りだった。
ひかるくんの趣味なのか早乙女さんの趣味なのか、研究室はかわいらしいもので溢れている。置いてある雑誌もヘアサロンかと思うようなラインナップだったり、それが定期的に入れ替わったり、おやつセットやお茶会セット、お昼寝セットとかいうものまである。なんと癒やしの空間か。
それでいて課題に取り組むときはみんな真剣でパリッとした空気感さえ漂うのだ。決してサボっているからこの状態なのではなく、みんなが気持ちよく取り組めるようにこの状態なのだとすぐにわかった。
「ナマエさん、もう瀬尾研のメンバーだね」
「えへへー、志音くんにそう言われると嬉しいなあー」
にこ、にこ。なんて、微笑み合う。
はあああ、最高。
心理学の研究に没頭するようになり、女子っぽい付き合いが徐々に淘汰されていった結果、研究室と自宅の往復が日課になった。
面倒くさい女扱いされることが増えて『かわいい』『癒やし』なんてものから遠ざかり、枯れ果てた私のかわいいものセンサーが、メーターを振り切れて反応したのは数年ぶりだった。
瀬尾研は私に大切なことを思い出させてくれた。私は本来このようなかわいい空間が大好物の『女子』なのだと。
「あのね、あっちの駅前においしいパティスリーのお店、見つけたんだ。クッキーがおいしいよ」
「えっ、じゃあそこにしようよ」
「ナマエさん、クッキーすき?」
「大好き!」
にこ、にこ。また微笑み合った。
志音くんに笑顔を向けられると、どうしても微笑み返してしまう。そういう力があるのだ、志音くんの笑顔には。それが『かわいい』の魔力なのだ。
今日は志音くんと休憩時間用のお菓子の買い出しに来ている。
私をかわいい空間づくりの一員に加えてくれるなんて、嬉しすぎて泣きそうだ。しかも隣を歩くのはかわいいが服を着て歩いている志音くんだ。
あ、でも男の子にかわいいってあんまりよくないのかな。でもかわいい~~~。もうすぐ大学生なのに“男の子”だもの。
「志音くんもクッキー好き?」
「うん、マフィンも、マドレーヌも、あとフィナンシェもすきだし、いっぱいすき」
「えへへー、私も全部好き」
いい加減デレデレが過ぎているのも自覚はあるが、どうにも止められない。
ババアが調子乗ってると思われなければそれでいい。そう思われていないという保証はないので自戒は忘れずにいたい。
目的の店までは電車で1駅か。改札を通って電車に乗り込もうとすると、あまりの人の多さに驚いた。
「高校生はテスト期間だから」
「ああ、なるほど」
道理でフレッシュな制服がキラキラしているわけです。
志音くんは制服を着ていないからあまり意識した事がなかったけど、本来この中に混ざっていても違和感のない人ってことだよね。
なんだか複雑な思いを抱えつつ電車に乗ると、四方八方を制服の男女に囲まれる。
うっ、満員電車なんていつぶりだろうか…… 塞がれたドアに押し付けられるこの感覚。
「大丈夫?」
「う、うん、大丈夫、これしき!」
「これしき、って……」
初めて聞いたんだけど、なんて言ってクスクス笑う志音くんが天使かと思った。
その時電車が大きく揺れて「点検のためにしばらく停車する」という内容のアナウンスが流れた。
数分停車しても再始動する気配はない。高校生が多いだけあって車内は徐々にざわつきを増して、いずれガヤガヤに変わった。
電車自体かなり久しぶりに乗った私はその音と人の熱気にあてられて、若干のめまいを感じるほど。
「うーん」
思わず小さな唸り声をあげたとき、胸のつかえが取れたように少しだけすっと楽になった。
「ね、ナマエさん、辛いときは辛いって言っていいんだよ」
志音くんの声がして初めて私の身体を挟むように志音くんの腕が伸びていることに気づく。
人混みをかき分けてできた小さな空間の中で、やっと呼吸ができる。
「志音くん、ありがとう」
「ごめんね、俺が行きたいなんて言ったから」
「違うよ、私も行きたいって思ったし。楽しみだね!」
やだな、志音くんが申し訳なさそうな顔する必要ないのに。志音くんのおすすめのお菓子が楽しみなのは本心なんだから。
志音くんに安心して欲しくて全力の笑顔を向ける。私の笑顔に応えるように志音くんも笑顔をくれて一安心。
そこでまた大きく車体が揺れてようやく電車が走り出した。
胸に衝撃を受けると後ろから押されて潰されないように踏ん張っている志音くんと目が合う。両肘をドアにつくようにして立つ志音くんはもう私の目と鼻の先ギリギリで、ちょっとこれは、あと一歩でキスだ。多分。
「ナマエさん、ごめんね?」
「ううん、全然、私は平気だから」
「……嫌じゃないの?」
「うん、大丈夫」
嫌ではない。すっごく、ドキドキはするけれど。
初めてこんなに間近で見る志音くんは神の創造物としか思えないほど透明感のある神秘的な魅力に溢れていた。
人間が神に近付こうだなんてそれはドキドキするだろう、誰だって。
「じゃあ良い?」
「えっ、それはどういう意味で」
「俺がこんなに近くにいてもいいの? って意味」
「な、あ、へぇあ、や」
一瞬熱っぽい瞳をした志音くんと目が合うや否や、抱きしめるように覆いかぶさられて耳元で志音くんの優しい声が響く。
しかもそれがあまりにも予想していない方角からの質問で、年上の余裕とかポスドクの威厳(も何もないけれど)とかが全部吹っ飛んで情けない声しか出てこない。
「ふふふ」
「なっ、あ、か、からかった?」
「ううん、かわいくて笑っちゃった」
「かっ、かわっ」
「ねえ俺にドキドキしちゃった?」
「したよ! し、心臓おかしくなる」
だから耳元でそんなふうにしゃべったり笑ったりしないで……!
私の願いも虚しく志音くんは引き続き私を抱きしめる一歩手前の姿勢のまま、耳元でささやき続けている。この情けない表情を見られないのがせめてもの救いだ。
「もっとドキドキさせたいな」
「もう、あの、やめっ」
「俺はいつもナマエさんにドキドキしてるんだよ」
「えっ」
電子音とともに告げられる目的地到着のアナウンス。
次の瞬間にはもうあまりにも自然に志音くんに手を引かれて制服だらけの人の波の中を渡っていた。
私はついていくのが精一杯で、握られた手の大きさと温かさに胸がいっぱいで、一歩先を歩く志音くんの顔は見えなかった。