私は知っている、郁人さんが「甘えた女は嫌いだ」と言っていたことを。
それは学生との他愛のない会話の一部だったし、女子学生を牽制するためのものだったかも知れない。なんせ顔と外面だけは良いもので、女子学生に言い寄られることも少なくないのだ。
本気で言った可能性ももちろんあって、その証拠が私の目の前での発言であったことと、彼が私を選んだという事実だ。
確かに私は男性に媚びたり無用にへりくだったりするタイプではないし、それが原因で損な役回りをすることも多々あった。一部の人から「鉄」呼ばわりされているのも知っている。でもそれを嫌だと思ったことも悪いと思ったこともない。
それにしても私は郁人さんに言いたい。郁人さんは「甘えた女」と見下したように言うけれど、女が甘えるのにも才能が必要なのだと。
「……くそが」
郁人さんの口の悪さが移った。郁人さんの前では決して乱暴に話さないように気をつけているけれど、一人の時に悪態つくくらいは許されるべきだろう。
とにかく今日はどっと疲れている。
私だって、本当は、彼氏に甘えたりしてみたい。
「はあー」
勢いで開けたワインボトルはそろそろ軽くなってきた。つまみにしていた缶詰ももう終わる。それなのに私の気分はなんだかずっとモヤモヤしていた。
同僚とその彼氏の話を聞けば聞くほど羨ましくてハゲるかと思った。
昔から少女漫画が好きで、今もいい年してTL漫画を読むのが趣味だ。本当は大好きなのだ。甘ったるい雰囲気や、彼氏が彼女に、彼女が彼氏に、デレッデレに甘えたり甘やかしたりしているのが。
だけど“鉄”の私が甘えたりそんな空気を作るのは、誰にも望まれていない。郁人さんはきっとそんな私の姿を見たら「甘えた女は嫌いだ」と思うのだろう。
「やりたい」
「欲求不満か」
「えっ」
突然かけられた声に驚いて振り向けば、そこには郁人さんが嘲笑しながらネクタイを外していた。物音にすら気づかなかったなんて結構酔っているかも知れない。
「随分飲んだな、やけ酒か?」
「そう」
「何があった?」
「……」
何、って。なんもないですけど? 私がぐじぐじ一人で勝手に悩んでいるだけですけど? 郁人さんに言ったらどうせ馬鹿にされるようなことですけど?
悪態と自己嫌悪に酒パワーが最悪な形でマッチングして、私の意識とは裏腹に目から汁が垂れた。アルコールのせいか止めたくても止まらない。
こんな残念な私を見せるのは初めてで、焦りで頭にカッと血が上る。
「おい泣くな」
「そもそも郁人さんのせいじゃないですか、私だって、私だって」
「なんの話だ」
てっきり嫌な顔をしてどこかに行ってしまうかと思いきや、一瞬ムッとはしたものの「郁人さんのせい」という言葉に反応して私の側に寄ってティッシュを渡してきた。……やさしい。
ティッシュを受け取って涙より情けない鼻水を拭う。
「いいです、郁人さん呆れるもん」
「手間取らせるな、言え」
あ、これ少女漫画のやつ……
綺麗な顔で私に迫るように強くそう言った郁人さんが少女漫画の王子様に見えた。ほんと、どこからどう見ても整った顔。ああ、嫌われたくないな。でも。
ままよ!
どうせ泣いた顔も鼻水も見られたのだ、幸か不幸か泥酔状態であることは認知されている。今がチャンス。顔面をできるだけ綺麗に拭いて郁人さんに飛び込むように抱きついた。
「……甘えたくて」
「は?」
「ずっと郁人さんに甘えたいの、我慢してました」
「それでやけ酒して泣いたのか? 馬鹿かお前は?」
「もおおおおお、そういうこと言うからできなかった! ずっと! もういいです!」
ああ、やっぱり。言うだけやるだけ損をする。私なんか、誰にも甘えないで大好きな人にも本当の姿を見せられないで、生きていけばいいんだ。
急降下したテンションのまま郁人さんから離れようとすると、郁人さんはギュッと私を拘束したまま離そうとしなかった。
「お前の妄想癖と飛躍した思考回路、本当に悪い癖だな。治せ」
「……郁人さんの悪態癖も治したほうがいいんじゃないですか」
「別に甘えるななんて言ってないだろう」
反撃したい一心で呟いた嫌味は軽く無視されて、宥めるような優しい手が私の背中を撫でた。いつもの様子とは違って声も優しい。
「だって甘えた女が嫌いって言ったじゃないですか」
「お前は別に甘えてないだろ、しっかり自立したいい女だから好きになった」
「えっ」
まさかのご褒美発言に涙も引っ込む。然すれば何やら今の状況がものすごく恥ずかしいものに思えてきて、怒りや焦りの熱がサーッと引いてすぐに羞恥の熱がこみ上げてきた。
「さっきは『お前が俺に甘える』のと『甘えた女』の違いもわからないなんて死ぬほど馬鹿だな、という意味でお前を馬鹿だと言った」
「し、死ぬほどは言い過ぎでは」
「お前はかわいいよ、今みたいな酔っ払った顔も崩れた笑顔も俺は好きだ。俺は勝手に“それ”を甘えてるものだと思っていただけだ。お前に甘えられることを嫌だと思ったことは一度もない」
これは夢かなにかだろうか。
郁人さんは既に私を甘やかしていた……?
わ、わかりにくい! 思い返してみれば、キリッとしていない私の姿を見ても郁人さんは文句ひとつ言わなかったし、それどころか優しげに微笑むことすらあった。
「す、好き、です、私も」
「ああ、俺も好きだ」
こんなことしてもいいのか。嫌われやしないか、幻滅されたらどうする? 怖い。怖いけど、今しかない。恐る恐る郁人さんの背中に腕を回して軽く力を込めると、郁人さんはそれに応えるように抱きしめ返してくれた。
嬉しかった。
私なりの甘えをきちんと受け止めてもらえることがこんなに心地良いことだとは。私の頭の少し上にあったデオドラントスプレーの匂いをさせた首元に擦り寄ってみると、抱き寄せるように温かい手がその後頭部を撫でる。
「郁人さん」
「なんだ」
「好きです」
「さっき聞いた」
「もっと言いたい、好き、好きです」
あれ。さっき引っ込んだはずなのに。再び目元から溢れ出した涙は、何粒かこぼれてすぐに止まった。
遠慮しているのが惜しくなって腕にしっかり力を込めると、もっと近くに郁人さんを感じる。ずっとこうしていたい。
そう思っていたのに、郁人さんは私から離れてしまった。
「お前わざとやってんのか」
「はい?」
「来い、馬鹿」
また怒られるようなことをしたかと自分の行動を振り返るけれど、よくわからない。手を引かれるがままに郁人さんの後に続けば、いつの間にかベッドに放り出されてジャケットを脱ぎ捨てた郁人さんが覆いかぶさっていた。
「俺がお前に慣れるまでこうなるのを覚悟して甘えろ」
「えっ」
それはまた随分と難しい要求をなさる。
だけど私はこうなるのが嫌ではなくて、むしろ甘えたままこうなったらどうなってしまうんだろうなんて期待すらしていて、思わず微笑んでしまう。
「郁人さん、好きです、キスして」
両腕に触れて引き寄せれば、照れたような怒ったような困ったような複雑な表情を浮かべた郁人さんにベッドに深く沈められていくのだった。