所長が出社する20分前に事務所の鍵を開け、カーテンを開けてトイレとフロアを一通り簡単に掃除しておくのが私の毎日の朝の仕事だ。
トイレの手洗い場を掃除していると、ふと自分の顔が目についた。
鏡の中の私はどう見ても『普通の女』で、特別に見かけが整っているわけでもなければスタイルが良いわけでもない。身長も高すぎず低すぎず。当然青山さんのようなギラついたイケメンからは遠くかけ離れた存在である。
「ちょっと、これは、あまりにも……」
望みがなさすぎるのではないか。
少なくとも見た目は好みではないだろう。多少シュッとした男前な雰囲気がある顔立ちならまだ救いもあっただろうに。
「あ、いたいた、ナマエ、おはよう」
「あっ、おはようございます、すみませんすぐに掃除しちゃいます」
「居るならいいのよ、ゆっくりでいいから」
出社してすぐに私を探してくれたのだろうか。鞄を持ったままトイレまで覗きに来た所長は、私を見て微笑むとすぐに引っ込んでいった。
「はあ……」
好きすぎてため息まで出る始末。何今の。最高すぎない?
かわいいとかかっこいいとかそんな次元はもはや超越している。成瀬明という一人の人間として愛しいのだ。素敵だ。感情が高まりすぎて語彙力が死ぬという経験を初めて味わった。
早鐘を打つ心臓が治まるのを待ってから事務所に戻ると、所長は珍しく雑誌を見ていた。
「女性誌?」
「そうよー、依頼者の旦那の不倫相手」
「えっ」
先日依頼があった浮気調査のターゲットの不倫相手が判明したらしい。モデルとは聞いていたけど、こんな有名雑誌に載るほどのモデルだったとは。所長が指差すページを見ると、スラッとしたシャープな印象の美人が映っていた。
こういう人でも不倫なんかしてしまうんだなぁなんて下衆なことを思う。と、同時に、彼女を見て所長は何を思うのかと新たなる疑問が浮かぶ。
チラリと所長の表情を見ると興味なさげにペラペラとページをめくっていた。
「あの、全然関係ないですが、所長って女性の好みとかあるんですか」
「そりゃあるわよ、ナマエだってあるでしょう」
「ありますけど恋愛対象というわけでは」
「アタシだって別に青山が男だから好きになったわけじゃないわよ」
「……ん、それって所長の恋愛に性別は関係ないってことですか?」
「ないわよ」
えっそうだったの!?
じゃあ私でもOKってこと!?
い、いやいや、そんな女ってだけで恋人になれるとは思えるほど厚顔無恥ではないけれど、完全な無からミリ単位でも可能性が生まれたなんてそれはとてもすごいことでは。
「そ、それで、しょちょ、所長はどっどんな女の子が好きなんですか」
「急にどうしたのよ、大丈夫?」
やばい、焦りすぎて変な態度になってしまった。言葉も上手く喋れなくなってるし。
所長は訝しげに私を見るけれど、必死で「大丈夫です」と言いながら平静を装うと、視線を雑誌に戻してまたペラペラとページをめくり始めた。
「この子とか」
「はい」
「この子とか」
「……はい」
細い……
所長が指差す女の子はみんなスレンダー系で、いわゆるモデル体型だ。まあ雑誌見て「モデル体型だ」も何も無いんだけど。みんな私より細いしかわいいし、比べるのもおこがましいってもんだ。
そもそも所長自身が細身でスラッとしているし、女性目線でも「綺麗」って感じさせる美形なんだから、理想が高いのは当然か……
「この子、みたいな、細い子は見てて安心できないわね」
「え、は、はあ」
「健康体でタフな子じゃないと、アタシがくつろげないじゃない」
「じゃあ顔はどうなんですか」
「かわいい子」
「かわいいってどういうのですか」
「アタシがかわいいって思ったら、かわいい」
「ええ」
そんなアバウトじゃ何もわからない。かといって営業時間中にこんな下らない雑談で食い下がるのもどうかしてるし、言い負かされるように黙るしかなかった。
いや、欲張るのはやめよう。女が恋愛対象内だったという衝撃的な事実が得られただけでも大収穫だ。
「いつまでボサッとしてんのよ、コーヒー」
「はい、すみません。今すぐ」
相変わらず興味なさそうに雑誌を見ている所長に指摘され、慌てて給湯室に向かった。コーヒーメーカーで2杯ドリップして片方を所長のデスクに置くと、ふと雑誌から顔を上げた所長と目が合う。
「おまたせしました」
「……ありがと♡」
まじまじと見つめたかと思えばにっこりとかわいく笑ったりして、まったく朝から心臓に悪い。所長のかわいい「ありがと」に対する良い切り返しも思い浮かばない貧相なボキャブラリーの私は、赤くなって「いえ」と答えるのがやっとだった。