京介くんはずるい

果たしてなんのつもりなのか。それを訊いて良いのか、悪いのか。
仮にもバーのオーナー兼店長という立場でありながら、お客のプライベートに土足で踏み込むなんてできるわけがない。少なくとも私からは。

「ナマエさん」

……くそ、顔がいい。
カウンター越しにはテレビの向こう側に映っていたあのイケメン俳優が3割増のそれで微笑んでいる。シルバーアッシュに染めた柔らかそうな髪が頬にかかり、骨ばった長い指で頬杖をつく姿はそれだけでグラビアのようだった。

「今日はありがとう」

柔和な顔立ちとは裏腹に低く落ち着いた男らしい声色は、薄暗いバーの雰囲気によく合う。よく合うからこそ、目のやり場に困るのだ。

「いつも無理させてごめん」
「ううん、大丈夫、事情はわかってるので」

京介くんが初めて私の店に来たのが一年前。それから一体全体どういうわけか京介くんはここに通いつめ、今では常連中の常連になった。時々は今日のように閉店後に一人で来ることもあって、そんなにうちが気に入ってくれたのなら、と、私も京介くんを特別扱いしてしまっている。
俳優という職業柄、マスコミやファンの目があって外ではなかなか落ち着いて食事もできないのだろう。その点うちはいわゆる隠れ家的な招待制のダイニングバーで、お客同士プライバシーは守るし私だって余計な口は叩かない。
彼が息抜きできる空間がここだというのなら、それはとても嬉しいことだ。
私は店員で、彼は客として、だけど。

「はー、美味しい」
「ありがとう、お世辞でも嬉しい」
「お世辞言うためにこんな時間に押しかけたりなんかしないよ」
「はは、じゃあ素直に、ありがとう」

いつも「美味しい」と言って私の作った小鉢を食べる。その時々で素材も味も違うけれど、好き嫌いは無いのだろうかと思うほど。
汚れた食器を洗ったりダスターの洗浄をしたり、あくまでも営業の延長で彼を迎えている雰囲気を出す。それなのに私の視線は無意識に彼を追ってしまうのだ。
もちろん私は既に気付いている。これが店員が客の様子を伺う意味合いの視線ではないことに。

「ナマエさんの料理食べてお酒飲んでる時が一番幸せだなー」
「さすがにそれは」
「本当なんだけどな」
「もう」

単なるリップサービスなのか本当なのか、私どころか本人すらわかっていないんじゃないか。さらりと口にする言葉には一切の淀みがなかった。
最後のグラスを洗い終えると何もすることが無くなってしまい、いよいよ明日の仕込みを始めてしまおうかどうか迷う段階になる。

「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「ねえナマエさん、手かして」
「え」
「手、はやく」

私の仕事が落ち着いたのを見計らったかのようなタイミングで京介くんに声をかけられ、その上耳を疑うような要求にどうしていいかわからないでいると、例の整った顔が上目遣いに私を捉えた。
きっと若い子から見たら素敵なお兄さんなんだろうに、私の前では年下なりに甘えた声色でこんな風にかわいい仕草を見せる。
本当にこれは現実なのか? なんて疑ったことは何度もあった。

「ほら、伸ばして」
「う、ん」

恐る恐るカウンターの上から手を伸ばすと、京介くんは鞄からチューブを取り出して中身を少し取って私の手の上に乗せて握るように塗り拡げた。
ハンドクリーム?

「これは」
「アーモンドのハンドクリーム」

少し離れた場所からでも甘い香りがふんわりと漂う。変に女々しくもなく、柑橘やローズのように強い印象もない、マイルドな甘い香り。ちょっとだけ京介くんのイメージに近い香りだと思った。
いや、それよりも。香りは香りで素敵だけれども。
京介くんは塗りこぼしを避けるように丁寧に私の手にハンドクリームを塗り込んだ。京介くんの手って、こんなにあったかいんだ。水仕事をした直後だったからか、熱くさえ感じる。

「はい、反対」
「えっ」
「片方だけじゃしょうがないでしょ、両方塗らなきゃ」
「自分で塗れるよ」
「いいから、ね」

またその顔をする。ずるいじゃないか。
京介くんの手が離れた右手を引っ込めて、左手を差し出す。するとすぐに京介くんの手に絡め取られ、さっきのようにハンドクリームが私の手に馴染んでいった。

「メイクさんが使ってて、ナマエさんのイメージにぴったりの香りだなって思って」
「そうかな」
「うん、優しくてなんか暖かい感じ」
「あはは、なんか京介くんこそ、そんな感じだけど」
「じゃあお互いにそう思ってるってことかな」

せっかく軽口を叩いたのに、どうしてすぐそういうことを言うのだろう。私がそっちに踏み込めないことなんか、わかってるくせに。
もうとっくにハンドクリームを塗り終えているのにも関わらず、京介くんは私の手を離そうとしなかった。

「あのね、ナマエさん。俺、本当に、ここにいる時が一番幸せなんだ」
「そう思ってもらえるなら、……お店やっててよかったな」
「……うん、ナマエさんがお店やっててよかった。いつも癒しをありがとう」

さっきまでの雰囲気とは打って変わって京介くんは明るくそう言い放つと、パッと私の手を離し、そのままハンドクリームのチューブを握らせてくる。
素直に手を引っ込めて思わずそのパッケージを見ると、英語かフランス語かの上に補足するように日本語の成分表が張ってあった。

「その香りのイメージが俺に似てるなら、それつけて俺のこと思い出してよ」
「え」

思わず京介くんの方を向くと、どこか悟ったような諦めたような無気力な笑顔を浮かべていた。なんでそんな悲しい顔を。
そこまで考えて、言葉にしてはいけない疑惑が首をもたげる。
――もし、同じ気持ちだったら。

「そうだ。もうハンドクリーム塗っちゃったから、俺が食器洗うね」
「お客さんにそんなことさせられないよ」
「そっち入っちゃだめ?」
「そういうわけじゃないけど」
「なら良いでしょ、いつものお礼ー」

京介くんは私の制止なんか聞く気もないようで、食べ終わった食器とグラスを手にカウンターの中に入って食器を洗い始めた。なんだか居たたまれなくなった私はダスターを手にカウンターを飛び出し、さっきまで京介くんが座っていた場所を拭く。
どうするのが正解だったのだろう。心臓がうるさくて何が正解かどうかなんて、考える余裕もなかった。

「ねー、ナマエさん、またこの時間に来てもいい?」
「もちろん」
「……ありがと、待っててね」

含みのある口ぶりの願いごとに、裏の意味はあるのだろうか。
あってもなくても、今の私はそうするしかできないから。

「いつでも、待ってる」

タイトルとURLをコピーしました