彼氏と旅行。
この響きにワクワクしない女子なんて居るのだろうか? いや、いない。いないはずだ。例外なく私だって心を踊らせ、たくさんの旅行ガイドブックを買ってきてしまった。
壮馬さんは忙しい。国内で知らない人などいないレベルの大企業の会長だもの、忙しくないわけがない。そんな壮馬さんが誘ってくれたのだ。私を。旅行に。しかも二人きりで。
「あ、ナマエさんだ。なにそれ」
「きゃー、カナメくん、おかえり!! あのねあのねー、旅行に行くの、壮馬さんと二人で。二人で行くの」
「……なにそのテンション」
年甲斐もなくはしゃぎまくる二十歳をウン年も前に過ぎ去りし私を見て、カナメくんは明らかにドン引きしていた。
宮瀬さんと宏弥くんは庭の手入れで今日は一日中外にいるし、そこで澄ましたように紅茶を飲んでいる新堂さんは冷たいし、私の話を聞いてくれるのなんてカナメくんくらいしかいないんだよ。そんな期待たっぷりに見つめると、カナメくんはちょっとイヤそうな顔をしつつも私の隣に座ってくれた。いい子すぎる。
「はー、どうしよう、どこに行こう~」
「場所も決まってないのによく買ってくるね、こういうの」
「だって二人きりだよ」
今まで壮馬さんと旅行をしたことが無いわけではない。……が、その時にはいつもこの屋敷の面々も一緒の、いわゆる「家族旅行+部外者の私」だったわけだ。
だけど今回は本当に本当の二人きりで、カップルの旅行なのだ。テンションも上がるだろう。
もちろん家族旅行がイヤだったわけじゃないし、屋敷のみんなも大好きだけれど。それとこれとは別の話だ。
カナメくんは呆れながらも私の買ってきたガイドブックを手にとってペラペラとめくる。
「おい、お前調子に乗るなよ。人混みは避けて電車で行ける範囲にしろ。ああ、飛行機は駄目だぞ」
突然口を開いた新堂さんは新聞に目を向けたままくどくどと文句をつけた。
「はあ? わかってますけど?」
「お前がその様子じゃ九条も気を使って無理をするだろう。連泊するなら三日以内程度にしておけ」
「偉そうに……」
「お前よりは偉い」
「研修医の時にちょっとお世話になったくらいで末代まで恩を売るつもりですか?」
「ハハハ、それも悪くないな」
まあ確かに? 九条家とお知り合いになれたのも新堂さんのおかげですけど? いやいや、だからってそこまで口を出される筋合いはないのでは?
大体私だって医師の端くれとして、壮馬さんの病状や体調の心配くらいできる。
無表情で乾いた笑いを吐き出す新堂さんは目が死んでいた。なんだ、私と壮馬さんが二人で旅行するのが羨ましいのか。
「まあ新堂さんがどれだけ心配しても私と壮馬さんは旅行に行きますけど」
「主治医として行動範囲にくらい口を出させてもらう」
「ええええ」
「九条の体調になにかあったらどうするんだ、お前だって楽しめないぞ」
「うっ」
「危険をおかしてまで旅行したくないだろう」
そこまで言われたら「はい、そうです」としか言えない。無理させたいわけではないし。私は壮馬さんの病気のすべてに対して「全責任を負えます」とは断言できない。
足元みやがって……
ついつい思考が態度に出て、新堂さんを恨みがましく睨んでしまう。
「ナマエさん、顔怖いって」
「だって新堂さんが意地悪なこと言うから」
「意地悪だと? そんな子供じみた発想は俺には無い」
「ちょっとくらい夢見させてくださいよ」
「そんな言い方したら九条が悲しむんじゃないか」
「揚げ足ばっかり取って!」
「ふん、俺はただ自分の患者の健康を脅かす可能性を排除しているだけだ、医師が患者の心配をして何が悪い」
私とは正反対に、新堂さんはずっと冷静を保っていた。
普通に医師としてかっこいいことまで言っている。しかもきっちり正論だし純粋に壮馬さんの体調を心配しているのがわかるだけに、私がただわがままを言っている風なのもまた腹立たしい。断じてわがままなどではないが。
「新堂、その辺にしてやってくれないか」
「九条さん、この二人どうにかしてよ。顔合わせるたびこれだもん」
最初から聞いていたと言わんばかりの壮馬さんは、クスクス笑いながら私の向かいに腰掛けた。そして私と新堂さんに挟まれてさぞ居心地の悪い思いをしたであろうカナメくんの直談判に微笑み返す。
そう、こんな喧嘩腰のやりとりは初めてではない。彼女とはいえ受け持ち患者を医師免許を持つ他人(私)に弄くり回されて気が悪いのか、それとも壮馬さんのことが好きすぎるのか、新堂さんはやけに私に突っかかってくるのだ。
「違うんですよ、壮馬さん。いつもの新堂さんの病気です、嫌味ばっかり言うんですよ」
「何度言えばわかるんだ、俺は九条の心配をしているだけだ。まったく研修医の時から本当に鳥頭だな」
「失礼すぎる! 壮馬さんそいつを今すぐクビにしてください!」
「感情的になって“大事な彼氏”のお抱え医師を切るとはいい度胸だな」
「また始まった、いい加減にしなよ、二人とも歳考えて」
新堂さんのせいでカナメくんに怒られた。軽く歳までディスられる始末。確かにね、高校生の前でする言い合いじゃなかったな。反省反省。
新堂さんの言う通り、壮馬さんにとってもあまり気の良い話題ではなかったかも知れない。不愉快に思っていたら申し訳ない。そう思って壮馬さんの表情をちらりと盗み見ると、壮馬さんはため息を誤魔化すように微笑んだ形に口元をキュッと締めた。
呆れられた? 嫌われた?
そこまではいかないにしても、やっぱり多少は不愉快に思っただろうか。
うるさかったかも知れないし、自分の体のことを気にしてしまったかも知れない。壮馬さんが不愉快に感じる理由がポンポンと思いつくことに自己嫌悪する。
「本当に仲がいいんだな」
「良くない」
「そ、そうですよ、全然良くないんですよ」
「ほら、そうやって。妬けてしまうだろう」
「えっ」
今なんと?
壮馬さんはゆったりと腰をかけたまま流し目で新堂さんを捉えた。
「あんまりうちのをいじめないでくれよ、新堂」
「うちのか、これが」
「私の大事な人だ」
やだ、ずるい。そんなこと言いながら私を見つめるなんて。壮馬さんの物言いに隠しもせずニヤニヤしている新堂さんに憎まれ口のひとつやふたつ放ってやりたいのに。私の心臓はそれどころではない。
そこでついにニヤニヤでは我慢ならなくなったらしい新堂さんは声を漏らしながら笑った。
「……くくっ、ま、旅行は無理しない程度に」
「わかっている。せっかくのナマエと二人きりの旅行だ、楽しんで来よう」
テーブルの下で私の袖を引っ張るカナメくんが小さな声で「よかったね」と言ったのに、震えるように何度も頷くのが今の私の精一杯だった。