仕事帰りにスマホを確認すると、神楽さんから「今日会えない?」とメッセージが入っていた。もしも私に犬的な耳と尻尾があったなら、ぶんぶん振り回していただろう。そんな気持ちで「大丈夫です」と返事をしたらすぐに電話があった。
そんなこんなで今日は神楽さんと夜デートと相成ってこうしてバーで飲んでいるのだけども。
だけども、なんだろうか、この重苦しい空気感は。
何か話があるんだろうなとは思っていたけれど、なかなか口を開く素振りも見せない。そんなに言い難い事なんて、きっと良い事ではないんだろうということくらい私にもわかった。
「あのさ」
「はっ、はい?」
グラスを見つめて悶々としているところに急に話しかけられて変な声が出てしまう。
慌てて神楽さんを見ると、神楽さんはものすごく真剣な顔をして私を見ていた。
「なんで羽鳥だけ羽鳥って呼ぶわけ?」
「え?」
話ってそれ?
突拍子もない疑問を投げかけられたおかげで、私の顔はひどく間抜けだろう。それでも神楽さんの顔は真剣で、疑うような不安を孕んだような、訝しがった不思議な顔をしていた。
「羽鳥だけ羽鳥」って言われても、羽鳥さんは羽鳥さんなんだから、例えば槙くんを「羽鳥さん」とは呼ばないだろう。
「なんでって、羽鳥さんは羽鳥さんじゃないですか」
「……だから、なんで下の名前で呼ぶのかって訊いてるの」
「…………え!?」
神楽さんの口からこぼれる衝撃発言に一瞬思考が停止して、その意味を理解してから目玉が飛び出すかと思った。
「あ、え? 羽鳥さんって苗字じゃないんですか!? だって桧山さんも槙くんも『羽鳥』っていうからそういうものだと……」
「はあ?」
「ちょ、ちょっと待ってください、言い訳させてください! 最初に『羽鳥です』って言われたんですよ、普通成人した大の大人が下の名前で自己紹介するなんて思わないじゃないですか」
「羽鳥が普通に見えるわけ?」
「いえ、あの、まあそう言われるとあれですけど」
普段の羽鳥さんの言動を思い出してみると、普通、とは、やはり言い難い。ような気がする。ていうか、あなたたちみんな普通ではないです。
そうか、そういうことなのか。
私の“普通”に当てはめていた私が間違っていました。
「彼氏のことも名前で呼ばないくせに羽鳥だけ名前呼びとか生意気すぎ」
「うっ」
「慶ちゃんだけ槙“くん”なのもおかしいでしょ」
「それはあの、神楽さんが神楽“さん”って感じだから仕方ないです」
「はああああ?」
本日二度目の「はあ?」は随分深く、そして積年の感情が込められているような。
訝しがるなんて生易しいものではない不快そのものの眼差しがビシビシと突き刺さり、思わず両手で盾を作って身を引いてしまう。
そんな私を見た神楽さんは盛大なため息をついてカウンターに向き直ってからちらりと私を見て口を開いた。
「羽鳥の名字、大谷だから」
「……今更大谷さんっていうのもなんか」
だってそうだろう、今までどれだけ「羽鳥さん」と呼んできたと思っている。
今更「大谷さん」だなんて、それこそ意識しているみたいで気まずいじゃないか。それに絶対からかわれるだろうし。
だけど目の前の神楽さんの不愉快の原因をそのままにしておくのもやっぱり違くて、どうしていいかわからずぐるぐると答えを探す。
「じゃあ僕のこと名前で呼べば」
「えっ!?」
いきなり呼び出したかと思えば何度衝撃発言すれば気が済むんだ、この人は……
な、名前って、あ、あ、亜貴さん? 亜貴くん? とかそういうことか。無理! そんなの無理!
「あのさ、キミって僕の彼女だっていう自覚あるの?」
「いや、違うんです、そうじゃなくて、だって恥ずかしくて。男の人を下の名前で呼ぶ習慣もないから。その……」
「なに」
普通に恥ずかしいんですけど。と言おうとしたのに、言えなかった。
だってなんかかわいい顔してるんだもん。不機嫌すぎて私と目を合わせるのも嫌なのかと思いきや、もしかしてもしかすると、嫌なんじゃなくて恥ずかしいんじゃないのか。
私から見えるのは薄くて形の良い神楽さんの右耳と、線の細い鼻筋が通ったきれいな横顔。オレンジ色の照明のせいかも知れないけど、少しだけ赤く染まっている気がした。
……この人は、私にこの話を伝えるために、どれくらい悩んだんだろう。
なんでも手に入れられるような立場にありながら、こんな些細な願いに頬を染めたりして。
「あ、亜貴さん……」
「さん?」
「亜貴、くん……?」
今すぐ慣れろなんて無理な話だけど、始めなきゃいつまで経っても彼の願いは叶わない。
急に愛しさがこみ上げてきて彼の名前を呼ぶと、一点を見つめて固まっていた“亜貴くん”は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「……うん、いいんじゃない」
「亜貴くん、亜貴くん。亜貴くん!」
「な、ん、何回も呼ばなくていいから。やめてよ」
「嫌ですよ、亜貴くん、大好き」
今度は亜貴くんが私に盾を作る番になった。
スラッとした彼の指に私の指を絡めてテーブルの下に潜り込ませてぎゅっと握る。ここまで照れている亜貴くんはとても貴重だ。かわいくて、愛しくて、頬の緩みが止まらない。
「亜貴くん」
止まらない感情を名前に込めて呼べば、顔をそむけた亜貴くんが私の手を握り返してくれた。