宮瀬さんの思い出

俺を「宮瀬くん」と呼ぶ人は、現状関わりのある人の中にはほとんどいない。ましてや女性となれば存在しないと断言できる。
新しくできた花屋で花を選んでいる時、そう声を掛けられた時に俺は多分変な顔をしていたと思う。訝しがるような疑いの顔。そんな表情のまま顔を上げると、おそらく10年ぶりに見る彼女の姿があった。
同じ高校に通っていた、クラスも知らない女子、だった。今はもう女子と呼ぶのは失礼なくらい、立派な女性だ。

「久しぶり、憶えてる?」
「ええ、まあ……」

俺の中に彼女の記憶がある、という意味では憶えているが、どう会話していいかわからず愛想笑いで誤魔化した。
当時は「ナマエ」と呼んでいたっけ? それとも「ナマエさん」だったか。あまり名前を呼ぶことはなかったから忘れてしまった。でも彼女にはずっと「宮瀬くん」と呼ばれていたことは憶えている。

裏庭の花壇にはゼラニウムが植えてあって、彼女は年中その花壇の手入れをしていたのだ。
委員会だったか部活だったか、とにかくほとんど毎日のように裏庭にいて、居場所を探していた俺は、見つからないように彼女の場所を避けてただただ時を過ごしていた。

「誰かいるなとは思ってたんだけど、宮瀬くんだったんだ」

と、話しかけられたのは高校3年生の夏休み前。そこでやっと、ずっと俺の存在が認知されていたことを知ったのだ。
彼女は俺のことを名前で呼んだが、俺は彼女の名前を知らなかった。記憶にもない。俺のことを“くん”と呼ぶからには、同学年なのだろうということくらいしか。

その一方的な認知に居心地の悪さを感じた。もうここに来るのはやめようと思った時、彼女は俺を引き止めるように「よかったらまた来てね」と言った。
軍手をはめた手は泥だらけで、決して「格好がつく」とは言い難い学校指定のジャージ。植え込みに顔を突っ込むこともあるためか、頭もボサボサだった。結び目から飛び出した髪が無造作に絡まって、手を伸ばしたい衝動に駆られる。
顔は。特別美人なわけではなかったけれど、はにかんだ頬の片側にできたえくぼが印象的だった。

「気が向いたら」

それだけ言って、もう来るつもりはなかった。
それなのに翌日の放課後、彼女が炎天下の花壇で一生懸命に草むしりなんかしているものだから、つい購買で水を二本買って片方を彼女に差し出してしまった。
その時はまだ深い意味なんかなかった。ほんの出来心だったと思う。
「ありがとう」と笑う彼女と並んで草むしりをしていたら、もう来ないなんて決意はとても子供じみたものに思えて、あっけなくどうでもよくなってしまった。

昼休みか放課後か授業のない時間に裏庭に行けば彼女が居たし、彼女が居れば多少の会話はあるし、気がつけば俺はいつの間に彼女を大切に思うようになったりして。
何故連絡先を訊かなかったのだろうか。
今思えば願掛けのようなものだったのかも知れない。変わって欲しくない場所がずっとそのままであることを祈るような。そんなことは有り得ないなんてことは嫌というほど知っていたはずなのに。

冬休みが明けると、裏庭で彼女を見かけることはなくなった。
彼女がいなくなった裏庭には枯葉が散り始め、いずれ山になった落ち葉は用務員の年配男性が片付けだした。俺が彼に気づかれることはなかった。
春が来て、卒業して、それっきり。
連絡先すら知らない彼女への気持ちも、いつか風化していった。

10年ぶりに「宮瀬くん」と呼んだあなたはあの日と同じようにはにかんで、同じように片方だけえくぼを作る。
かわいい、と思ったのだ。あの日も。今も。
所狭しと置かれた花桶に囲まれるあなたを見て、砂に還った気持ちに埋もれた新しい感情の種が一気に芽吹いて花を咲かせた錯覚に陥る。何か言わなければ。

「あなたは何組の生徒だったんでしょうか」

訊けばよかった。クラスだって、連絡先だって。なぜ急にいなくなってしまったのか。俺のことをいつから知っていたのか。俺を、どう思っていたのか。

「嘘でしょ、知らなかったの?」

すみません、と謝ると、あなたはクスクスと笑う。
左手の薬指に指輪がないことに安心する自分に気づき、ため息が漏れた。辛いとか呆れているとかではなくて、覚悟のため息だった。今度こそ祈りや願いなんかで終わらせたりしない。
今からでも遅くないだろうか。

「あの、連絡先を訊いてもいいでしょうか」

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