誠さんの考え事

※ややキャラ崩壊注意

 

同じ事を意味していても表現が異なる言葉はたくさんある。
例えば「あす」「あした」はどちらも「今日の翌日」を指す言葉だ。状況や使用者、そして対象者の年齢や性別によって個性が現れやすいのが面白い。ニュースキャスターなら「あす」と言うだろうし、年端も行かぬ子供なら「あした」と言うだろう。重苦しいニュースを読むキャスターが「あした」と言ったり無邪気にはしゃぐ子供が「あす」と言ったりすれば、それだけで小さな違和感を与えるほどに現代日本に於いては個性として作用するのではないだろうか。
このように同じ意味を示す言葉であっても、表現を変えることによって発言者の気持ちや立場を匂わせることができるのだ。

「それで?」
「ああ、それで」

これらはどちらも「胸部」を意味する言葉だ。胸部全体を指すこともあれば、膨らみの部分のみを指すこともある。心臓や肺などを含む胸部全体をぼんやりと示す時などその“部位”として指す時には「胸」、その中でも膨らみ部分のみを指す時には「おっぱい」と使い分けている人も多いような気がするのだが、アンケートを取ったわけではないので正確な所はわからない。

「なるほど」
「参考までに君はどう思う」
「おおむね同意ですが、恥ずかしいのでおっぱいと言えない人も多いと思います」
「そうか」

羞恥心が作用して表現が変わる。感情のある動物ならではのコミュニケーションだ。実に興味深い。新しい表現の解釈を得られた。ありがとう。
さて、俺は羞恥心というものをあまり実感したことがない。つまり「胸」と「おっぱい」を羞恥心で使い分けることはないのだ。今までの人生で「おっぱい」と発言したのはおそらく記憶にも無いくらい幼い頃(記憶が無いので定かではない)で、物心ついて以来、男女どちらのものを指すときも「胸」と言ったことしかない。

「そう言えばそうかも」
「そうだ。俺は自分のイメージに合わない言葉は使わない」
「そんな理由で……」

表現者として当然のことだ。あくまでも俺は俺でいなければいけないと考えている。もちろん型にはまりすぎて頑なになったり定型的になりすぎてしまったりするのも良くないが。「使用者に合う言葉を使いたい」というのが俺の考えだ。

「小説家っぽい!」
「小説家だからな」

湯船に二人で浸かり、君の背中から腕を回して腰を抱くのは幸福に満ちている。入浴剤で桃色に染まる湯にたゆたう君の胸に手を伸ばし、両手のひらで包み込むように揉むと、浮力の関係なのかいつもよりふんわりと柔らかく溢れんばかりだった。
そこでひとつの疑問が浮かぶ。

──果たしてこれは「胸」なのだろうか?

例え俺のイメージにそぐわない言葉であっても、俺はこれを「おっぱい」と呼びたい。そう思ったのだ。
言葉には感情が作用している。

「羞恥心のない誠さんが使う“おっぱい”にはどんな感情が?」
「そんなの愛しさに決まっているだろう」

俺の指の隙間から溢れる様がたまらない。食べてしまいたい。顔を埋めたい。君を抱きしめたい。これを愛と言わずしてなんだと言うのか。
君を抱くには多少の距離が必要だが、密着して離れたくないのにとジレンマに苦しむのはそこに愛があるからだ。
その他大勢の人間の胸部は今でもこれからも「胸」だが、君のここは「おっぱい」だと俺はそう思う。

「うん、わかった。けど」
「けど?」
「そろそろのぼせそう。おっぱい好きにしていいから、ベッドに行きませんか」
「良い提案だ」

離れがたい。離したくない。そういう気持ちがあったとて、彼女の言う通りそろそろ体力と環境の兼ね合いが取れなくなってきた所だった。どんな場所でも君は君だし、愛しさは変わらない。湯船に浮遊するやわらかな「おっぱい」がベッドの上で張りを保ちつつ脇に流れたとて、それは「おっぱい」なのだ。
提案通り好きにさせてもらおうか。

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