一条|彼の庇護

後悔というものは、往々にして先に立つことはない。
働くなら給料が高い方が良いに決まっているなどという、上京したばかりの自分の愚かさときたら後悔してもしきれない。
幸か不幸かある程度恵まれた環境で育ったのも良くなかった。帝愛グループのことは就職するまでホテルの会社だと思っていた。

「お客様、おやめ下さい!」
「うわあああ!!!!」

今日も客が暴れて頬に痣を作った。
かわいそうに、この客はおそらく全財産と思わしき数百万をすべて沼に飲まれたのだ。しかしいくらこの客がかわいそうだとはいえ、私に暴力を振るって良い理由にはならない。
血の味がした。
今までに何人もああいう人を見てきた。その度に止めに入り、怪我をした。
なぜこんな所に就職してしまったのかと、何度後悔したかわからない。

「ナマエさん、もういいから」
「……はい、あとはお願いします」

主任に客の応対を任せて身を引いた。その頃にはもう、客は失意の目でほとんど抜け殻。
ああ、毎日毎日、人を殺したような気持ちになる。
事務所で鏡を見ると、その痛み以上の見た目で我ながら驚いた。
顔面を殴られるとこうなるのか。
そういえば初めて顔面に怪我をしたな。

「大丈夫か」
「店長」

ひどい目に遭ってもこの店を辞められないのは、この人のせいだ。
辞めさせてくれないわけじゃない。
私がこの人の側から離れたくないだけだ。

「これ当てとけよ」
「ありがとうございます」

店長は私に氷嚢(ひょうのう)を渡すと、深い溜息をついて私の隣に座った。黒い革張りのソファに店長の手が擦れて、独特のギシギシとした音が事務所に響く。
いくらなんでもいきなりこれを当てたら頬がどうにかなるのでは。
恐る恐る氷嚢を頬に当てると、意外と冷たすぎるわけでもなく私の熱くなった頬を心地よく冷やしてくれる。
それだけ酷いということだろうか。

「お前は前線で客の所に行かなくて良いと言っただろ」
「私だけそういうわけには」
「クビにするぞ」

鋭い視線が私を刺す。
心底機嫌悪そうな表情のまま強い口調でそう言われ、何も言えなくなってしまった。
できれば、できる限り、私はここにいたい。
この店長の下で働きたい。
ずっと店長と関わっていたい。
告白して今以上近づく勇気も度胸もない私にとって、ここで働くことが唯一の店長との交流の場なのだ。

「でも」
「業務命令にすれば満足か?」
「……わかりました、もうしません」

沼が稼働している時は店長が見張り役になる。
中の客が暴れてしまえば店長に被害が及ぶのだ。それを黙って見ているのは胸が痛む。今回だって今までだって、やりたくてやったと言うよりは勝手に体が動いたまでというだけで。

「迷惑ばかりかけてすみません」
「……俺はお前を部下にしたことを後悔したくない」
「…」
「新人リストを渡されてお前を選んだのは俺だ」
「え」

そんなの知らなかった。
とにかく採用されたかった私は、面接で「なんでもやります」と言った記憶がある。
新入社員の女は私ひとりしかいなくて、末端の接客業での採用は少し残念だった。
それから考えが180度変わったのは合同新入社員研修に入ってからだった。
ホテル業なんかの“表”の採用なんてひとつもなくて、闇金や風俗の受付、本社のアシスタント、どれもこれも酷い労働環境と思われる場所ばかり。
それに比べればカジノの従業員なんて平和なものだと思った。

「ここならお前を守れると思ったからだ」
「なんで」

店長がそんなことまで考えているんですか?
勘違いしちゃうじゃないですか、やめてくださいよ。
絶対にありえない想像が駆け巡った末の言葉を、口に出してはいけないと飲み込んだ。

「よそに行ってたらそこのトップの愛人にさせられてたぞ」
「え、そんな」
「お前みたいな初心げな女が好きなオヤジに何人か心当たりがある、お前はそこの愛人枠採用だ」

店長からの突拍子もない暴露話に硬直してしまう。
知らないうちに危ない橋を渡っていて、知らないうちに助けられていた。
もし店長の目に留まっていなかったら?
頬を殴られるだけなら大したことではない。

「黒崎さんが俺に声をかけてくれたことと、俺がお前に同情したことに感謝するんだな」
「はい、本当にありがとうございます。本当はホテルとかの仕事のつもりで、私、知らなくて…」

うまく言葉が出てこない。
最初から私を救ってくれたのは店長で、今もこうして私の体なんか気遣ってくれて、私が店長を好きになる理由なんかそれだけで十分で。
頭がガンガンと痛みを帯び、気がつくと喋りながら涙を流していた。
泣くつもりなんてひとつもなかったのに。
今までずっと店長の庇護の下にいたと思うと、思い上がった行動で手を煩わせている自分が馬鹿らしい。
でもそれと同時にとてつもなく嬉しくて、店長を大切に思う気持ちが止まらない。

「頬の痛みのせいってことにしてやるから早く泣きやめ」
「はい、すみません、本当に、」

店長はいつもと変わらない様子で胸元からハンカチを取り出して、私の手にそれを握らせた。こんなふうにサッと気遣える所も好きだ。
こんな時に何を考えているのかと思うけど、スイッチが入りっぱなしになってしまってそれどころではない。
すらりと長い足を組んで座る姿も好きだし、こんなに泣いている私を前にしても顔色ひとつ変わらない所も好き。
ワインレッド色をしたバーバリーのハンカチなのも好き。
全部好き。

「お前のおかげで客足も伸びたし、お前目当ての客もいる。もうお前はうちに欠かせない人間だ」
「はい」
「自分を大事にしろよ、お前は大切な俺の部下だ」
「はい、ありがとうございます、」

大切な部下。
勘違いしすぎる前に釘を刺された気がした。
さっきまでそれだけで天にも登るような気持ちだったくせに、もっと求めている自分に気づく。傲慢な自分に嫌気がさす。

「あとこれは個人的な要望だが」
「はい」
「お前が傷つく姿は見たくない」
「……それは」
「守れなくて悪かったな」

そう言って近づいてきた店長の手が、私の頬に触れて優しく撫でた。
かつてないほど近くで、その綺麗な目がぱちくりと瞬きをする。
客に殴られた頬が熱い。

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