メルル|帰郷

10年前の私はまさかまたここに来ることになるとは思っていなかったし、15年前の私はまさかとなりにアメリカ人の彼氏がいるなんてそれこそ想像もしていなかった。
久しぶりの故郷はそれなりに変わっていて、街を歩くだけでは懐かしいとかそういう気分にはなれなかった。
実家はもうとうの昔になくなったし、交流のある肉親も住んでいない。そう考えると本当に思い入れのない場所だと思う。幼い頃は確実にこの国で生まれ育ってきたはずなのに、私の居場所はすっかりあの薄汚いアパートの一室になっていた。

話は数週間前に遡る。例の薄汚いアパートで、ふたりで古い日本映画を見ていた時のことだ。

「おい、こいつ池に入ってるぞ」
「これは温泉」

そんな会話をきっかけに、メルルがあまりにも山に囲まれた温泉に興味を示すものだから、ついつい私も昔の記憶が蘇ってしまいいてもたってもいられなくなった。
メルルがどうしても一緒に行くなんて言うものだから、張り切っていろいろ調べて昔ながらの旅館らしい旅館に2泊3日の宿を取ってしまったのだ。
そんな彼は今部屋から見える山間の川とその向こうに聳そびえる岩肌と生い茂る緑を眺めている。鹿が見えるらしい。

「どう?」
「日本の鹿は小せえな」

ここはひとつ観光でもしたい所だけど、生憎慣れないフライトと長距離バスのお陰で体がギシギシして最悪のコンディションである。メルルが同じ旅をしてきたとは思えないほど元気なのは何故だろうか。私より断然おっさんのはずなのに。
メルルの気分が乗るのを待っていようと思ったけど、せっかく温泉に来たのだから先に入っても罰は当たるまい。

「私先に温泉入るね」
「じゃあ俺も行く」
「もっと見ててもいいよ」
「行く」

私が温泉に入る準備をしていると、メルルは外を眺めるのをやめて私を真似しながら荷物を用意し始めた。
タオル、下着、浴衣、バッグ。ひとつひとつ私を確認しながら用意するメルルが意外にもかわいい。浴衣なんか持って、着て帰ってこられるのだろうか。
……まあ周りに人がいれば真似て来るだろうし、人がいなければ出てきた所を私が直せば良いか。
準備が整った所で部屋の鍵を閉め、大浴場に向かう。
メルルにとってはそこらじゅうの景色すべてが珍しいもののようで、始終キョロキョロしていた。私にとってももはや珍しいもののはずなのに、やはり身体に染み付いているのかやっと懐かしい感覚が蘇る。
のれんにでかでかと書かれた「男湯」「女湯」の文字でさえも懐かしさを感じた。

「じゃあここで」
「え?」
「え?」
「メルルは男湯、私は女湯」
「なんだよ、一緒に入れないのか」
「そういうものなんだよ」

なんと悲しそうな顔だろう。こんな顔初めて見た。あまりにも悲しげな顔をするものだから、思わず笑いそうになるのを噛み殺す。
メルルには内緒だけれど、実は明日は家族風呂の予約がしてあるのだ。今こんなに悲しい顔をしているのなら、きっと喜ぶに違いない。
しかし今日はそういうわけにはいかないので、大浴場で我慢してもらうしかないのである。
またね、とハンドサインを送ってメルルの背中を押すと、大きな背中がのれんの奥に消えていった。
あれだけ楽しみ(?)にしていたのだから、気に入ってくれると良いけど。私も久しぶりの温泉を楽しむとしよう。
中に入ると時間が少し早いせいか貸し切り状態だった。久々の温泉で、大浴場が貸し切りなんて私はラッキーだ。人目もないから恥ることなくバンバン服を脱げる。

「ーー!!」

ん? 人の叫び声が聞こえた気がしたけど、子供でも泊まっているのだろうか。国が変われど子供は元気が一番だ。
ガラスの引き戸を開けると温泉独特の高湿度が体にまとわりつく。

「ナマエーーーー!!!」

えっ!?
叫び声の主であろう人物があまりにも予想外すぎて、まるで時が止まったかのように思う。
さ、寒い寒い。温泉を目の前にして引き返すのはかなり後ろ髪をひかれるものがあるが仕方ない。必死に私の名を呼ぶのは、きっととても困った事があったはずだ。
仕方なくさっき脱いだばかりの服を着なおして廊下に出ると、やはり相当困った顔をしたメルルがそこに立っていた。

「ナマエ!」
「なによもう、入り方はわかるでしょ、脱いで入ればいいのよ」
「裸の男が何人もいたぞ、おい、裸だぞ」
「温泉なんだから当然でしょ、お風呂だよ」

妙に慌てた様子で私の腰を抱いて、まるで誘拐された子供のようなことを言うものだから、こちらもこちらで面食らってしまう。
温泉が何かはわかっていると思っていたけど、違ったのだろうか。引きずられるように部屋まで連れ戻されて、せっかくの温泉気分が消化不良だ。

「待てよ、俺はゲイじゃないって知ってるだろ?」
「え?」
「ゲイじゃない、俺はナマエが好きだ」
「知ってるよ、どうしたの急に」

私にしがみついて怯えるメルルの尋常じゃない様子に、私も焦って抱きしめる。胸元に擦り寄って甘えるメルルがちょっとかわいい。
聞けば全裸の男がウロウロしている場所に放り込むなんて、俺を憎んでいるのかということらしい。そういえばアメリカには日本のような温泉の文化はなかったな。人前で全裸ということ自体なかなか無いだろうから、確かに全員全裸の光景はちょっと驚くかもしれない。
それにしてもこんなに怯えるなんて。
むしろ見せつけてやるぜ!バーン!みたいなタイプかと思っていたけど、まさか怯えるとは。

「やだ、ごめん、そんなつもりじゃなくて」

ついに笑いを堪えきれずに半笑いになってしまう。メルルはそんな私を見て呆気に取られたように固まった。

「温泉ってああいうものなのよ、ちゃんと説明してなくてごめん、メルルが苦手ならもっと違うのにすればよかったね」
「わざとじゃないのか?」
「わざとじゃないよ、みんなゲイじゃないし、私もレズビアンじゃないけど全裸の女だらけのお風呂に入るのよ」

温泉のルールを教えてあげると、眉をしかめたり納得するように頷いたり、いちいち反応しながら熱心にそれを聞いている。が、やっぱり大浴場は苦手みたいだ。
せっかく海外旅行してまで嫌な思いさせるのはかわいそうだから、無理強いはやめよう。

「本当は明日言うつもりだったんだけど、実は明日は貸切の温泉を予約してるの」
「それは俺とナマエだけの?」
「もちろん、っ」

感激したと言わんばかりに強く抱きしめられて息が詰まる。喜んでくれてよかった。

「悪いけど今日はお風呂我慢してね」
「構わねえよ」
「私が温泉に行ってる間は鹿でも見てて」

そのたくましい腕の間から抜け出そうと身をよじるけれど、一向に抜け出せる気がしない。さすが元軍人とあって、何かの技を決められているような気になる。びくともしないなんて。

「ちょっと」
「ナマエも今日は入るなよ」
「なんで、寂しいの?」
「たまにはお前の匂いでも嗅ぎながらヤりたいんだよ」
「なっ、汗、嫌だ、」
「しょっぱい」
「やめ、て、」

べろ、
と生暖かい舌が首筋を這う。
逃げられない状況でメルルの手は軽快に私のシャツをたくしあげて、順調にその準備を始めていた。

「本当に、も、メルル」

ティーンじゃあるまいしこんな昼間から、ましてや旅館で盛るなんて信じられない。密着した素肌と素肌の部分にじんわりと汗をかく。重ねられた唇が熱くて、溶けそうだった。

「ちょっと、もう」
「風呂に行かないならやめてやる」
「わかった、入らないから、」

メルルは満足そうに笑いながら口笛を吹いた。ようやく解放された私はさっきよりも汗をかいて、まんまと罠にはまった感じが否めない。

「俺と同じくらい明日の温泉が楽しみになっただろ?」
「……本当にね」

私の耳の後で鼻を鳴らしたメルルは、ここ最近で1番嬉しそうな顔をしていた。

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