あれは誰のためにあげた経だったのか、今思い返してみれば村人たちには僅かばかり申し訳なかったように思う。まあ、本当に僅かばかりだが。
まさか泣くほどとは思わなんだが目当てのやつにはしっかり届いたようで柄にもなく安心した。
それはそうと、あれ以来あいつが妙にこちらに視線を送ってくる。
俺が視線を合わせてみると「何?」などとさも自分は今気づいたかのような態度を取りやがる。ふざけてんのかと思ったが、どうも無自覚で見ているらしい。
「あの馬鹿みたいに一途な恋心が霞むほど俺の経に惚れたかよ?」
など、どこぞのエロ河童のようなセリフが頭を過り、心底自分が信じられない。
「最近アナタにご執心のようですねえ」
八戒の視線の先にはもちろん、ぼんやりと俺を見つめるナマエがいた。俺が心配してやる義理も無いが、あんなにわかりやすい態度で悟浄に何も思われないのだろうか。
まあそれに気づいてたらこんなに拗れたりしないとも言えるが。
「僕としてはその方が有難いんですが」
「ああ? どーいう意味だ」
「そのまんまですよ。生憎ナマエは恋敵ですから、僕の悟浄を易々と渡すわけにはいかないんです、なーんちゃって」
「お前らのそーいうネタ、笑えねえんだよ」
マジっぽいですかね?と笑うが、まるで笑えん。
あの危うい三人の関係を見ていると悟空の脳天気な笑顔に救われる。
例えば悟浄が八戒にケツを差し出すにしても、例えばナマエが八戒の子を孕むにしても、……例えばナマエと悟浄が結ばれるにしても、何が起きても不思議ではないと思えるほど、不安定に見える。
その中でも特に不安定で常に拠り所を探しているようなナマエを、どこか放っておけない気になるのだ。
「冗談はさておき、彼女、あれからよく笑いますね」
「一時的なもんだろ」
「それでも元気になったことに変わりありませんから」
「まあな」
八戒はいつもの笑顔で「買い出しに行ってきます」と言って出ていった。なぜこのタイミングで持って回ったような言い方で、わざわざ俺にこんな話したのか。そういう所が不安定だって話だ。
ナマエと二人きりになった所で眼鏡を外して視線を合わせると、やはりまた「何?」とすっとぼけた反応があった。
「何じゃねえよ、そっちこそなんなんだ」
「何が?」
「言いたいことがあるなら言え」
「無いよ。……あ、あった! また誦経する時は教えて欲しい」
興味があるのはそっちかよ。こんな悪態、誰につけるものか。
混沌の中をひたむきに生きる。言葉にすれば簡単だが、それがどれだけ強き者でなければ成し遂げられないことかお前は知らないだろう。
ただ真っ直ぐ前を見つめる瞳の美しさを、お前は知らないだろう。
そしてそれがお前であることを、お前は知らずに前を向き続ける。
「興味があるのか」
「ちょっとね。なんか懐かしくて。あと、三蔵の声も好きみたい、良い声ね」
「当然だ、俺だぞ」
「毎日聞きたい」
「馬鹿言え」
いい加減報われない思いなど捨てて俺にすればいいのに、と、誰にも言えない思いをもう何度抱いたことか。
俺のことなどちっとも知らないこの女に、俺はなぜこんなにも心を支配されているのだろうか。