なんとなく「もしかしたらそんなこともあるかもな」なんて妄想をしていたこともある。
九条さんのお宅でお世話になるということは毎日九条さんと顔を合わせる可能性があるということで、それはつまり、毎日好きな人と接する可能性があるということで、一秒たりとも気が抜けないなあと思いながらも期待していたのは嘘じゃない。
だけど、嬉しいけど、幸せだけど、でも、それにしたって、こんな近くにいるのが日常になるなんて、そこまで考えてなかった。
「あ」
「うん? 危ないだろう」
「いえ、その、……はい、すみません」
宮瀬さんが用意してくれた私専用のスリッパは、まだ真新しくて足になじまない。スリッパが新品なせいか私がストッキングを履いていたせいか、この屋敷に来てからすぐに階段から落ちそうになったことがある。
それ以来、階段で九条さんに出くわすとこうして腕に掴まるように言われるのだ。
驚くに決まってるし申し訳ないしで初めての時に遠慮してみたけれど、そんなかっこいいお顔で「あなたが怪我してからでは遅い」なんて言われてしまっては拒否できるわけがない。
遠慮がちに九条さんの腕に掴まると、九条さんは満足そうに微笑んでから私のペースに合わせて一緒に階段を下ってくれる。
「屋敷には慣れたか?」
「はい、生活には慣れました」
「生活以外で不便があったろうか。男所帯だから言い難いこともあるかも知れないが、できる限り善処する」
「いえっ、あはははは、大丈夫です」
あなたには慣れません。とは口が裂けても言えない。
正直に「生活には」なんて余計なことを口走ったことを後悔しつつ、未だに慣れない九条さんの腕の感触を感じながら階段を下りた。
こんなに緊張してしまうというのに、最後の一段を下りるのは寂しいと感じる自分のふてぶてしさにうんざりする。
階段を下りきった先でそっと手を離してお礼を言うと、九条さんは「ああ」と言っていつもの余裕げな微笑みを浮かべた。
ここで「それでは」と別れられるなら一呼吸置いて気持ちの整理でもつけようものだけど、あいにく同じ屋敷で生活している以上、夕食を食べる場所は同じなのだ。
隣を歩く九条さんは今にも肩が触れてしまいそうで、私の心臓はさっきからバクバクしたまま治まる気配がない。
「どうぞ」
いちいち慣れない。九条さんにも慣れないし、こんなに女性扱いされることにも慣れない。
きっと九条さんは純粋な優しさでしてくれているに違いないのに、経験の浅い私はすぐに勘違いしそうになってしまう。
私に先立ってリビングに続く扉を開いた九条さんは私の腰に手を添えて先に行くことを促す。
「っ、ありがとうござ、っ」
焦った私はいよいよ脳がエラーを引き起こしたのか、スムーズに歩き出すことができずにその場で足をもつれさせてしまった。
視界ががくんと揺れた所で止まり、私の頭の中には大量のクエスチョンマークが浮かんだきり。
「大丈夫か?」
「は、あっ、す、すみません!」
「いや、大丈夫なら良いのだが」
「大丈夫です、大丈夫!」
「ふ、」
転びそうになった私を抱えたのは言うまでもなく九条さんで、慌てて体勢を直してその腕から逃れようとする。……のに、どういうわけか九条さんの方は私の腰から手を離さずにいた。
薄手とはいえカーディガンも羽織っているし、当然その下にも服を着ているし、何枚もの布越しだというのに九条さんが触れた所がとても熱くて息苦しささえ感じてしまう。
挙げ句に笑われてしまうし、もはや何が恥ずかしいのかわからないくらい恥ずかしい。
「なにもない所で転ぶとは、貴方からは四六時中目が離せないな」
「本当にすみませんでした」
謝る私に微笑んだままの九条さんは何も言わずに手を差し出した。
驚いて表情を伺うと、この手を取るのが当然と言わんばかりに、なんの含みもないいつもの九条さんがいた。
恐る恐る手を差し出せば、迎え入れるように九条さんの手がそこに伸びて優しく握る。そのままいつもの食事の席まで連れて行かれ、椅子を引くエスコートまで受けて丁寧に案内された。
もう何度も座っている席なのにまるで特別な日みたい。
斜向いに座っている九条さんは、相変わらずいつものようにキラキラして見えた。
「まだ誰も来ていないようだな」
「そうですね。呼んできましょうか」
「いや、いい。また転んだら大変だ」
「うっ」
「それにいい機会だ。二人で話す時間があっても良いと思っているのだが、あなたはどうだろうか」
それはどういう意味でしょうか。
私はあなたのことをもっともっと知りたいです。願わくばエスコートのその先の、誰も知らないあなたの顔を知りたいです。
一瞬のうちに勘違いしまいと押し込めていた欲望が顔を出して私の表情を歪ませる。
……好きです。
と、は、まだ言えなくて、いつか言えるかどうかもわからない。とにかく今は九条さんに気を遣わせるわけにはいかないと無理矢理笑顔を作り直した。
「私も、お話、したいです」
「ならよかった。……そうだ、それならワインでもいかがかな。貴方はワインが好きだったと記憶している」
「よく覚えていて下さいましたね」
初日の夕食の時に出た好みのアルコールの話題。本当に些細な一言だった。まさか覚えてくれているなんて思わなかった。
こんなの本当に勘違いしてしまう。覚えていてもなんのメリットもない私の言葉なんか、なんで覚えていてくれたの。
私が驚いていると、九条さんは席を立って私の所に来て再びその手を差し出した。
「一緒にワインセラーを見に行かないか、豪の準備もまだのようだし」
「……はい」
「一度貴方を案内してみたかったんだ。貴方の好みが知りたい。ワインに限らずいろいろな事を」
これは、九条さんが少しでも私との距離を縮めたいと思ってくれていると考えてもいいのだろうか。
その言葉の前には「同居人として」か「女性として」か、どちらが続くのか。もしそれが後者だったらいいのに。
だけど今はそんなことよりも、九条さんが私に興味を抱いてくれていたことがひたすらに嬉しくて、今度こそ心の底から笑顔でその手を取ることができたのだ。
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「なんで止まってるの?」
「ちょっと待ってろって」
豪さんに呼ばれて個室からぞろぞろ出てきた俺たちは、先に歩いていた宏弥くんにものの数分ほど足止めをされていた。
いい加減そろそろ食事をしたいのに、宏弥くんはその場から動こうとせず、リビングの扉を遠くに眺めてなにやらうずうずと様子を伺っている。
「やべえまた出てきた、隠れろ!」
「はい!」
宏弥くんが大きな身体を折り曲げて観葉植物の影に隠れると、その後ろにいた豪さんが大袈裟に壁の後ろに隠れ、それにつられた俺と清志さんも豪さんの隣で壁に張り付いた。
「……ねえ、なんで隠れたの」
「というか、そろそろ食事にしたいんだが」
「もう少しであっち行くからちょっと待てって」
しーっと指を一本口元に当てた宏弥くんが必死にそういうものだから、俺と清志さんは顔を見合わせてからため息をついた。豪さんは宏弥くんと同じくらい焦りながらもなんだか楽しそうなので放っておこう。
「……ふう。もう大丈夫だ」
「何があったの」
「九条さんがナマエと手ぇ繋いでた」
「なんだそんなことか」
どこからどう見たって好き好きオーラを出しまくっているナマエさんと九条さんが、今更手を繋いだところでどうだって言うんだ。
「く、九条さんが手を繋いでいたんだぞ、ナマエと!」
「さっき聞いた」
「二人の邪魔しちゃ悪い、だろ、多分」
「宏弥くんもそういうこと考えるんだね、意外」
「こういうときって、お赤飯を炊くべきなんでしょうか、それともおっきなケーキがいいですかね?」
「豪さん……」
赤面して動揺する宏弥くんはとても27歳には見えないし、目をキラキラさせながら何かを祝おうとしている豪さんの企みはものすごいおせっかい。
ちらりと清志さんの顔を見ると、想定外に少し嬉しそうな顔をしていてびっくりした。
……まあ、確かにちょっと興味はあるし、いきなり手を繋いだ九条さんとナマエさんが現れたら隠れたくなる気持ちもわかる。
「何も進展しないと思っていたが、意外と早かったな」
「もう付き合ってるのかな?」
「まだだろ。片思いの時点であれだけ距離が近い男が手篭めにした上であの距離を保てるわけがない」
「清志さん……」
手篭めって。
でも確かに、好き好きオーラ全開の九条さんはどんどんナマエさんとの距離を詰めていて、ナマエさんの方が若干引き気味にも見えたくらい。
焦ってるナマエさんをからかってるのかと思っていたけど、多分あれが九条さんの愛情表現なんだろうな。
「やっぱりお赤飯炊きましょう」
「えっ今から?」
「今日はやめとけ、腹が減ってもう待てない」
「じゃあ明日にします」
「俺、宮瀬の赤飯好きだ! ナマエが食べたらびっくりするぞ、美味くて!」
ようやくリビングに向かって動き出した宏弥くんと豪さんに続いて俺と清志さんも歩きだす。
「そうだ、今日はちゃちゃっと飯食って二人にしてあげようぜ」
「……うん、頑張る」
「……仕方ないな」
「決まりですね、それなら急いで準備しないと」
正直早食いは得意じゃないけど。そして多分清志さんも咀嚼の回数とかの事を考えているだろうけど。
リビングに入った時、二人が座っていた椅子だけ少しずれているのを見て、なんだか温かい気持ちになる。
九条さんとナマエさんがずっとこの屋敷で優しい顔して生活している姿を想像してみて、今日くらい早食い頑張ろうって思ってしまったのだ。