30万打|大谷 羽鳥さんと切なくて甘い恋をする

彼の目に特定の女性が映ることはあるのだろうか?
そんなことを思ったのは、羽鳥さんに出会ってすぐのことだった。物腰は柔らかく決して声を荒げたりせず、相手にとって心地よい距離を作れる人だと思った。こちらが引け目を感じないくらいには踏み込んで、不愉快に思わないくらいには距離を取る。誰に対しても心地よい距離を保てるのは普通の芸当ではない。
その上、当然のように眉目秀麗だし、なにやら有名な企業の社長だし、どこからどう見ても女性好きする要素しかない。

「どうかした?」
「いえ、別に」

まあそんな、いわゆるモテる男である彼が私に「君に本気になっちゃった」とふざけたようなセリフで告白したのは数ヶ月前の話で、未だに私はそれを信用しきれていない。
なのに「はい、私もです」などとふざけた返事をしてしまった私は、彼がそう告げるよりもずっと前からもう彼の術中にはまってしまっていたのだ。
彼が女性に対して“優しい”のは今に始まった事ではないし、それは彼の性格や性質ゆえのことだから仕方がない。
そう、仕方がない、と思っている。
その柔和な態度にまんまと絆されておきながら、今はそれを「仕方がない」なんて思っている。

「やっぱり都心とは違うね」
「そうですね」

温泉地帯にある山間は、彼に「行き慣れた場所か?」と問えば間違いなく「NO」と答えるだろう。実際そう答えが返ってきた。
私が無理に連れてきてもらった。それも平日の昼にだ。相当なワガママだったと思う。
いくら社長とはいえカレンダー通りに動いている会社で平日に休みを取ってもらい、その上こんな山間まで長い時間運転してもらって、辿り着いたここですることといえば景色を見るか足湯くらいで他にはなにもない。
足湯の傍らにある駐車場に車を駐め、二人でぼんやりと景色を眺める。木々たちは鮮やかな黄や橙に色づいていた。

「今日、仕事でしたよね」

私は羽鳥さんを試している。
羽鳥さんの優しさが私だけに向けられるひとときを感じたくて、ひどいことをしてしまった。散々振り回すようなワガママを言っておきながら、いざその優しさを向けられると申し訳なく思う。そういう自分が一番嫌いだ。
嫌いだ。嫌いなのに、今ですらわざと自己嫌悪の言葉を口にして、その羽鳥さんの優しさで私を救って欲しいなどと思ってしまう。

「ナマエちゃんがそんなこと気にしなくていいんだよ」
「でも」
「無理な時はちゃんと無理って言うから大丈夫。俺が君に会いたいから迎えに行った、ってそれだけじゃ駄目?」

私の顔を覗き込むようにして微笑む羽鳥さんは相変わらず綺麗な顔をしていて、優しげに目を細めていた。
その瞳も口角を上げた口元も、恋人になる前は大好きだったのに、どうして今はこんなに苦しいもののように思えてしまうんだろう。
誰にでもその顔を向けているのだとしたら。そう考えるだけでも胸が苦しい。

「駄目、なんかじゃないです」

精一杯作り笑顔をしてそう答えると、羽鳥さんは黙って運転席を出ていってしまった。
そしてすぐに私が座っていた助手席のドアが開き、シートベルトを外してくれた羽鳥さんがそのまま私の前にひざまずく。

「え、何」
「降りようか?」
「は、はい」

促されるままに助手席を立つと、羽鳥さんは後部座席から鞄を取り出して私の手を引いた。

「せっかくだし、入ろうよ」
「えっ!?」
「ちゃんとタオル持ってきたから大丈夫」
「知ってたんですか、足湯のこと」
「もちろん。女の子からのお誘いだもん、完璧にエスコートしなきゃ」

女の子、という言葉にチクリと胸が痛む。
やっぱり私は未だに“女の子”のくくりなのだろうか。私が“女の子”だから優しいのだろうか。
私の作り笑いをよそに、羽鳥さんは多分高価であろうスラックスの裾を折り上げて靴下まで脱ぎ、揃えた靴の中に入れると躊躇なく足湯に突っ込んだ。あまりの潔さに唖然としてしまうじゃないか。

「ほら、おいでよ」
「は、はい」

ここで遠慮してはいけない。そんな義務感のようなものからカバーソックスを脱いで、半分に畳んで揃えたパンプスにねじ込んでから羽鳥さんの隣に腰をおろした。
恐る恐る指先を浸してみれば、意外にも適温で心地が良かった。

「熱すぎなくてよかったです」
「気持ちいいよね」
「はい」

羽鳥さんはさり気なく私に腰を寄せてすぐに手を握る。
ふいに顔を上げればすぐに羽鳥さんと視線がかち合って、あっという間に私の唇に羽鳥さんの唇が重なった。触れるだけのキスに少しだけもどかしさを感じてしまう。
こんなにこんなに優しくしてくれるのに、すぐに疑ってしまう自分が汚らしく思えて、急に悲しくなって堪えきれなくなった涙が瞼のふちからこぼれた。

「こんな所まで連れてきてもらったのに、なにも無くてすみません」
「ううん、素敵な場所だよ」

私が泣いてもなにひとつ動揺せず、羽鳥さんはジャケットの内ポケットからハンカチを出して目元を拭ってくれる。
落ち着かせるみたいに背中をトントンと優しく叩く手に呼吸を合わせていたら、これ以上ひどい顔を晒さなくて済みそうだ。

「空気も美味しいし、のどかだし、景色もいいし。それに、君がいるし」
「そんなこと、言って」

女の子みんなに同じような事を言うんでしょう?
言外の意味を察するように、羽鳥さんは私を抱きしめると首筋に顔を埋めてキスをした。

「俺はね、この世に100%の嘘と100%の真実の言葉なんて存在しないと思ってたんだ」
「え」

脈絡もなく何を言い出すかと思えば。珍しく自分のことを話し始める羽鳥さんに、一瞬で私の涙など引っ込んでしまう。
こんなことってこれから先もう一度あるかどうかもわからないくらいのチャンスだ。一言一句聞き逃すまいと息をひそめた。

「大体の言葉には少しくらいの誇張や謙遜が交じるし、逆もね」

そのせいであなたの言葉すら信じられなくて苦しんでいるんだものね、なんて嫌味なことを考えながら自嘲気味に頷く。
羽鳥さんは私の頭を撫でながら言葉を続けた。

「でもそれだと君への気持ちを言葉にした時点で嘘が交じるってことになるでしょ」
「はあ」
「それじゃ悲しくない?」
「そ、んなの当たり前です」
「はは、そうだよね。だから俺は君に嘘はつかないって決めたんだ」
「え?」
「うん。1%も嘘はつかない。100%本当のことしか言わない」

ふとぬくもりが離れていくと、羽鳥さんのあの優しい微笑みが一直線に全部私に向けられる。
射止められたように動けなくなって、私はただじっとそれを見つめ返すことしかできなかった。

「好きだよ」
「ほんとに」
「はは、信用ないな。ナマエちゃん、君が好きだよ」
「他の女の子は」
「うん、正直に言うね。本当、心の底からなんとも思ってない。軽蔑した?」

今度は私よりも羽鳥さんの方が不安そうな顔をしていて、逆に私は心が穏やかになってくる。勝手に疑心暗鬼になって『羽鳥さんがモテる』という情報だけに囚われていた事を恥じるくらいには。
羽鳥さんの不安を取り払うように左右に頭を振った。

「本当?」
「本当です」
「じゃあ暴露ついでに言うと、三回目に会った時から下心があった」
「え!?」
「だから君だけ特別扱いしてた。これは軽蔑する?」

衝撃の事実に今まで抱えていた不安が一気に全部吹っ飛んでしまい、思いっきり頭を振る。もちろん左右に。
軽蔑なんてするわけがない。そんなことより誰にでもああいう態度を取るわけではないのか。そっちの衝撃の方が大きくて根掘り葉掘り聞きたい気持ちでいっぱいだ。

「よかった、これで隠し事がなくなった」
「誰にでもああなのかと思ってました」
「うーん、ちょっと情報が古いかな」
「昔はそうだったんですね」
「否定はしないよ、不特定多数の女の子に興味があるわけではないっていうのは昔から変わらないけど」

これだけ潔く都合の悪いことも認めてくれると、本当に100%の本音で話してくれているのではと思えてくる。いや、もう疑うのはやめよう。
だって羽鳥さんがこうしてわざわざ自分のことを語ってくれたんだもの。
羽鳥さんの言葉を受け止めて飲み込むと、以前の時のような純粋な好意が湧き上がってきて自然と顔がほころんでいくのがわかった。

「羽鳥さん」
「何?」
「私も、羽鳥さんが好きです」

素直に気持ちを言葉にすると、羽鳥さんが目を丸くして、つまり、どうやら驚いて私の顔を見つめている。
そんなに見つめられてしまうと視線の行き場に困ってしまうのですが。

「え、と?」
「はは、なんでもない。ははは」
「私おかしいこと言いました?」
「ううん、何もおかしくないよ」

わけもわからないうちに再びぎゅうっと強く抱きしめられた。その姿はどこかすがるようにも見えて、私も羽鳥さんの広い背中に腕を回して力を込める。

「初めてナマエちゃんに好きって言ってもらっちゃった」
「言ってましたよ」
「言ってないよ。でも今のでわかった、ずっと好きって思ってくれてたんだね」
「当たり前じゃないですか、つ、付き合ってるんだし、そんなの、ずっと好きです。好きでした、前からずっと」

羽鳥さんに身体を預けてぬくもりを感じていると、素直に気持ちを言葉にできたような気がする。確かに、そう言われてみれば初めて好きって言葉にしたのかも知れない。
羽鳥さんが「100%本当のこと」なんて言うから。
私の言葉も嘘じゃないって、本気だって伝わるなら、言える。

「羽鳥さんが好きです」

少しだけ身体を離して今度は私から唇を寄せてみた。わずかにそこを舌で舐めてみるとすぐに受け入れてくれて、私の唇の隙間から羽鳥さんの舌が潜り込んでくる。
熱い。
いつになったら離れても良いだなんて思えるのだろう?
そんなの一生無理なんじゃないかと考えていると、羽鳥さんの唇が離れて額同士をくっつけたまま見つめ合う。

「のぼせちゃうね?」
「……はい、熱いです」

温泉に浸した足が熱いのか、くっつけた額が熱いのか、離れたばかりの唇が熱いのか、ようやく通った心が熱いのか、そのどれもが正解なのだ。

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