こんなにも自分の心臓の音がうるさいと感じたのは、一体いつぶりだろうか。
「悟空はいいの」
「個人部屋なのに関係あるのか」
「いや……」
久しぶりの個人部屋で、気分を落ち着けてリラックス。小さなユニットバスだけど昼間買ってもらった入浴剤を楽しんで、手のひらサイズのマッサージ機で足やら腕やらをコロコロして、使い切りのフェイスパックをして、昼間の意味不明な感情を整理する予定だった。
私の部屋のベッドサイドでコーヒーを飲む三蔵が現れたのは今から5分前の話。
パック中の私を見てもまるで遠慮などする気配もなく、私の部屋にずかずかと侵入し、コーヒーを要求されて今に至る。
つけたばかりで捨てるのももったいなくて未だパックのままベッドに転がっている私だけど、三蔵はあろうことか新聞を広げてくつろぎだしたのだ。なぜだ。自分の部屋でやれ。
今日に限って悟浄と八戒はいない。
「それ、私の部屋でやる必要あるの」
「……新聞を読んでいた方が都合が良いと思ったが、違ったか」
藪蛇だった。
三蔵は少し考えてから新聞を畳んで身を乗り出し、寝転ぶ私の上に覆い被さる。
「ちょっと、早い」
我ながら謎な抵抗の言葉と共に三蔵の身を押し返すと、ぴくりともしない体の脇からあの顔に似合わない意外と男らしい手が伸びてきて顔に触れた。
「邪魔だ」
頬の端からフェイスパックが剥がされてパッと視界が広がり、見慣れてるはずなのにまるで見慣れない顔がダイレクトに目に入る。
こんなの無理。
だって私は気づいてしまったのだ。三蔵が男の人だっていうことに。今更ばかみたいだけど。
「やだやだ、無理」
「お前な……」
「だって無理、三蔵思ったよりかっこいいから無理」
そばにあった小さなクッションを引っ張り出して顔の前に抱いた。
オレンジ色のベロアのカバーが頬に触れただけなのに、その向こう側に三蔵のあの顔があると思うと動悸が止まらない。
三蔵が何も喋らないせいで自分の心臓の音が一番うるさい。
「思ったよりってなんだ、良いのか悪いのかどっちだ」
「えっ」
良いのか悪いのか……?
どうなんだろう。
考えたこともなかった。私が思っていたより三蔵が男らしかった事実は、私にとって良かったのか悪かったのか、どっちなんだろう。
「何黙ってる」
「考えたことなかったから」
クッションをそっとずらして隙間から顔を覗いてみると、やっぱり初めて見た時よりもずっとずっとかっこいい。なんでだろう。今まで悟浄のことしか見ていなさ過ぎたのだろうか。
悟浄はかっこいい。八戒も整った顔してるなーって思っていた。悟空はその性格の懐っこさからかわいいっていう印象の方が強くて顔の造形までイメージが至らない。そうだ、三蔵もそれだ。いつも悟浄が金髪美人とか生臭坊主とか言っていたせいで、金髪で美人な野蛮な坊さんという概念でしかなかったのだ。積極的に会話するタイプではないからあまりコミュニケーションも取ってこなかったし。
それがいざ目の前にこうして現れるとどうだ。言い寄られて悪い気はしない…… どころか、絆されてしまいそうなくらいかっこいいではないか。
“絆されてしまいそう”というくらいだから、やっぱり“良いこと”なのか。
「余計なこと考えてんじゃねーよ」
あの手が再び私の目の前に伸びる。これはまずい。クッションだけは死守せねばと抵抗し、必死にしがみつく。
「離せ」
「やだ」
「顔見せろ」
「三蔵がスケベだからイヤだ」
しばらくの沈黙の後に私の体を取り巻く三蔵の気配が離れていった。
クッションをどけて様子を伺うと、ベッドの端に腰をかけてその場で視線を落としている姿が目に入る。傷つけてしまっただろうか。
「……三蔵?」
返事がないので心配になり、顔を覗き込む。その瞬間に視界が反転したと思えば再びあの顔がそこにあった。
もう、一体何度目だろうか。私も相変わらず学習能力が足りていない。
「好きだ」
突然の告白に言葉が詰まって何も出てこない。呆気に取られた間抜けな顔で見上げることしかできず、頬に添えられた手をどうしようだとか、どさくさに紛れて腰に添えられた右手が情欲を掻き立てられてる気がするだとか、そんなまとまりのないモヤモヤがバーッと脳内を駆け巡る。
「あ、え、っと」
照明の逆光の下でもよくわかる、深い紫色の瞳。昔見た、星が眩しい日の夜空みたいな色。
眩しくて目を細めながら手を伸ばすと、綺麗な顔はすぐそこにあった。
「綺麗な目」
「お前は本物の馬鹿だな」
夜空色が降って長いまつ毛に遮られ、私の唇はいとも簡単に奪われてしまう。
噛み付くような、それでいて慈しむような、耳の奥が痺れるキスの心地良さには適わない。
「っ、ん、」
ちゅ、ちゅ、と唾液の交わる音が響き、それに負けないくらい私の心臓もどくんどくん脈打った。
最後にセックスをしたのは何年も前で、失恋したての傷心モードで、眉目秀麗な男性に言い寄られて断れる女子が何人いようものか。
簡単に陥落した私は三蔵の舌を受け入れ、そして自分のものも差し出した。
頭では離れなきゃと思っているのに、体が言うことを聞かないのだ。
「ふ、」
これ以上侵食することの無い彼の右手に一抹のもどかしさを感じ始めた頃、私の唇を塞いでいたそれは離れていってしまった。
「何してんだお前」
「こっちのセリフですけど」
「簡単に食われてんじゃねーよ、自衛しろ馬鹿が」
「な、な、」
自分からしてきたくせに……!
でも、なぜだろう。もう一度降りかかる唇を拒む気にはなれない。
私だって散々片思いしてきたのだから、三蔵の気持ちは痛いほどわかる。誠実に対応すべきこともわかる。
でもどうしたいのか、それだけがわからない。
あと少し。
もう一度重なりそうになる直前、隣の部屋から少し苛立ったような足音と荒々しく扉が閉まる音がした。八戒だ。
「俺が聞き分けの良いうちになんとかしてくれ」
三蔵もまた、少し苛立ったように小さくそう吐き捨てると、静かに部屋を出ていった。
ああ。
私は確かに今、行かないで、と思ったのだ。
このチクリと痛む胸の疼きの正体を、私は知っている。知らないはずがない。
だってそれは、ついこの間まで私が抱えていた気持ちなのだから。