きっかけはなんだっただろうか。
ああ、一昨年の年末にインフルエンザでどうしようもなくなった店長に食料を届けたことだったっけ。もう随分と昔のことのように感じる。まだ二年も経っていないのに。
初めて店長の部屋に入った時、店長がグレーのスウェットを着ているのを見て『あ、店長も普通の男なんだった』と思った。
「何してる?」
「砂糖の買い置きありましたっけ?」
「俺は買ってない」
「じゃあ次の買い物の時買って来ます」
店長は今日もスウェットを着ていた。今はヘアバンドで前髪を上に上げて洗顔している。見慣れた光景ではあるけれど、いつから店長のこんな姿を当たり前だと認識するようになったかは思い出せない。
店長も最初の頃は多少気を使っていた気もするけど、いつの間にかいわゆるオフの姿を当然のように見せるようになった。
相変わらず店では完璧な一条店長のままで、この姿は家でしか見られない特別な姿なのだ。
「重いだろ、俺が買っとく」
「ありがとうございます、今日誰と夜勤でしたっけ」
「村上」
「よかったですね、楽な日で。ああ、店長これどれくらい食べます?」
小鍋の中で玉ねぎと牛肉が煮えている。おしゃれな洋食ばかり食べていると思っていた店長は、実は牛丼も山盛りで食べるのだ。
生活リズム的に栄養バランスの良い食生活はしていないだろうと思っていたけど、スムージーとかスーパーフードとか女子が好む食べ物が好きそうに見えて、ジャンクな味付けの肉料理が好きだとは。
(そして食後にサプリ摂って帳消しにしてるつもりな所がかわいいのだ)
「お前の残り全部」
「私今日いらないです」
「なんで」
「ああ、これから合コンなんですよね」
ちらりと腕時計に目をやると、もう18時を過ぎていた。20時に駅前待ち合わせだけど、一旦帰宅して化粧直してちょっと着替えるくらいの時間はあるだろうか。ギリギリかも。せめて男の部屋からやってきた感くらいは消して参加しなければ失礼だろう。さすがに。
私が答えたきり店長からの反応が無く、不思議に思って顔を上げると、キッチンの柱に暴れた客の相手をした後のような仏頂面を掲げた店長がいた。
「びっくりするじゃないですか、なんですか、もうすぐご飯炊けますよ」
「飯はともかく合コンてお前、もう少し申し訳なさそうにするとか、隠すとか、普通そういうのあるだろ」
「え」
私は合コンに行ってはいけないのか?
いまいちその理由がハッキリしなくて悩んでしまう。
彼氏に言われるならまだしも、一応ただの部下と上司の関係なわけで、まさかそれでいて誰とも付き合うなとは言うまい。そもそも合コンに行くくらい、付き合う以前の話だし。
まあ、こうして自宅に訪れてはご飯作るくらい仲のいい関係ではあるけども。
そしていわゆる肉体関係も無くもないけども。でも頻繁じゃないし、店長なら良いかなって感じだし、別にやましい感じじゃなかったし、私としてはなんというか尊敬という形の延長にセックスがあっただけで。
「当たり前だろ、つーか普通行かないだろ、彼氏いるくせに」
「彼氏?」
「確かに俺は忙しいしろくにデートもできなくて寂しい思いさせてるだろうけど、そんな当てつけみたいな嫌味なことしなくたっていいだろ」
ぽかんとしている私に投げつけるように吐き出した店長の言葉が、思考の斜め上に飛んでいった。
そういえば店長がどんなつもりでいたかなんて考えたこともなかった。いや、正確には私と同じだと思っていた。
相性の良い部下の面倒をみたりみられたり、ちょっと公私混同してしまう店長の“甘え”のようなものだと。
「彼氏」
「何回も言うなよ、俺なんか彼氏じゃないって言いたいのか? チッ」
店長は小さく舌打ちをすると背を向けてどこかに消えた。私も思わず背を向けて、冷蔵庫の扉と向かい合う。
え、まさか、店長今まで彼氏のつもりだったのか。いつから? ていうか私、付き合ってとかそういう話をした覚えがひとつもないのだけど。
なんと。いや。混乱してどうしていいかわからない。まったく嫌ではないし、それならそれで有り難く彼女になりたいけど。
まさか私が彼女だったとは。
思い返せば“彼女”としての私の振る舞いは失礼だらけだったのではないだろうか。かわいらしいこともろくにしてこなかったように思う。
「おい」
「えっ、あっ、えっ!?」
声をかけられて振り向くと、キッチンの床に跪く店長の姿があった。しかもしっかり仕事用のスーツに着替えている。
仕事着とはいえ、きっちり仕立てられたオーダーメイドのそれはとっても良く似合っている。今日はシャツがちょっと派手な日だ。
背中に隠した腕を前に掲げると、その綺麗な手の中からはリングケースが現れた。
「不本意なタイミングになったが…、結婚してくれないか、俺にはお前しかいないと思ってる」
「えっ!?」
あまりの急展開に思わず大声が出てしまった。私が一番驚いてる。
プ、プロポーズ……!
漫画みたいなリアクションでもしなきゃやり過ごせなそうなシチュエーション。
漫画みたいに言葉がうまく出たらいいのに、生憎石化して動けない。さっき彼女だと気づいたのに、もう嫁が迫っているというのか。
「受け取ってくれるか?」
「えっ、あっ、あの」
「……嫌か?」
ああ、あの凛々しい店長が眉尻を下げて犬のような表情をしている。
困らせたいわけじゃないのに。
「あの、違っ、えっと」
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
ものすごく困惑しているけど、店長のことを尊敬しているし、男性として好きなのは間違いないのだから、それを落ち着いて話せばいい。
「私、店長が好きです」
「ああ」
「店長は…… あの、好きですか? 私のこと」
「当たり前だ」
「でも聞いたこと無かったから」
店長は一変して不意を突かれたような顔をすると、立ち上がって私の手を取り頬に軽くキスを落とした。
「そうだな、悪かった、生涯のパートナーになって欲しいと思うほどには好きだ」
「なかなかですね」
「当たり前だろ、一生結婚なんか考えないと思ってたんだから」
「結婚しちゃっていいんですか?」
「お前だからしたいんだろ?」
「あっ」
熱くなった店長の頬が首筋に埋まり、背に回された腕に引き寄せられた。店長に言葉を求めた事実に妙に申し訳ない気になって、恥ずかしさで死にたくなった。
とはいえもちろん恥ずかしさはあるものの、それは店長の気持ちを言葉にしてもらったことに対してであって、あまりにもジェットコースターすぎる人生については自分でも驚くほどすんなりと受け止めている。
気がする。
「今まではっきり言わなくて悪かった、同じ気持ちでいたら嬉しい」
「もちろんです」
これは口から出まかせになるのだろうか。いや、セーフだろう。尊敬はしてたし、一緒にいて楽しいし苦痛も無いし、店長はいつ結婚するのかな、彼女が羨ましいなと思ったこともあるし。
いろいろを四捨五入して“もちろん同じ気持ち”だった。認識が違っただけだ。
「……今日、合コン行くのか」
「あっ、あ、時間!」
「行くのか?」
「ドタキャンはちょっと。あの、でもちゃんと友達には結婚するって言います。多分ライバル減るからいいんじゃないですか」
そうだ、ちゃんと断らなければ。ドタキャンになってしまって申し訳ないけど。
焦って顔を上げると、今まで見たことないような優しい顔でこちらを見ていて、もしかしたら私が気づかなかっただけで何度もこんな顔をしていたのかも知れないと思うと胸が苦しくなった。
「……まあ、行ってほしくないのが本音だけど、お前のそういう所が好きだよ」
「あの、店長、好きです」
「俺も好きだよ」
「これからもよろしくお願いします」
「もちろん」