連日の天気予報で散々悪天候と言われていた今日は、予想通り客足が悪く売上も軽々と前年比を割っていた。
どうせ暇だから帰っていいぞ、と、遅番予定だったひとりを除いて従業員は全員帰して正解だった。
「どう思う?」
「どうもこうももう2時間もノーゲストですよ」
「2時間か…」
時計はもはや深夜2時を回り、終電もとっくに終わった。
例えこれから新規が来たとしてもその売上など毎日どころか刻一刻とかさむ莫大な電気代にすら満たないような時化たものだとわかりきっている。
雇われの身としてはあまり褒められたことではないが、臨時休業でコストカットするのも経営論として間違いではないはずだ。
……そうだな、少なからず人件費も削れるわけだし、こんな日くらいはいいだろう。
「よし、俺たちも帰ろう」
「えっ!? い、いいんですか…?」
「なんでお前がそんなに動揺してるんだよ」
「いやだって会長に怒られたりとか」
「まあ平気だろ」
「えっ、えー……」
なんだ妙に心配性なやつだな。
こんなに気の小さいやつだとは思っていなかったが、思いのほか神経が細いのかもしれない。
あいにくその不安を完全に解消する術を知らない(何故なら俺も一抹程度の不安はあるからだ)が、上司思いの部下の気持ちは素直に受け取ってやろう。
「じゃあお前が残ってくれ、俺は帰る」
「えっ!? そそそそれは駄目です、私も帰ります!」
「なんなんだよお前は」
「いいじゃないですか置いていかないで下さいよ」
鬱陶しい笑みを浮かべた部下は、電盤に手を伸ばすと容赦なく店内の照明を落としていった。帰る気まんまんじゃないか。
結局それからなんだかんだの事務処理で30分程度モタモタしながら二人で帰宅の準備を終え、やっと店の扉を開けた。
「……」
「……なんか言って下さい」
「……、うん」
「そうじゃなくて」
いや、ちょっとさすがに俺だって予想外だった。
まさか都心でここまで雪が降るなんて誰が想像できただろうか。
こんなんじゃ客だって来るわけがない。
予想以上に強く降りしきる雪に圧倒されたのは俺だけではなく、二人で呆然と立ち尽くす。
あまりにもしんと静まり返った街の様子に、帰ろうという気持ちが削がれていった。
「……お前、帰るのか?」
「えっ、いや、うーん、帰れると思います?」
「徒歩なら」
「すごく嫌です」
「そういえばお前、どこに住んでるんだ」
「中野です」
「頑張ればいけるだろ」
「嫌です」
互いが無口になった頃、踵を返して店に戻る。
特になんの声もかけなかったというのにパタパタと慌てた足音が俺を追って、しっかりと鍵をかける音が聞こえた。
ちゃっかり居座るつもりになっている部下に思わず面食らう。
仕事上男女で差別するわけにもいかず、いつも男同然に厳しく当たっているからてっきり苦手意識でも持たれていたかと思ったがそうでもないらしい。
事務所の照明と空調だけつけてソファに腰掛けたところで、鍵をかけた張本人がやっと事務所に現れた。
「なんだ帰らないのか」
「帰れるわけないじゃないですか! めっちゃ雪降ってるの見ましたよね!?」
「俺と二人きりでいいのか」
「ばっ、なっ、何言ってるんですか、さっきから二人きりでしたけど! ところでカーテン開けてもいいですか?」
「カーテン? ああ、別にいいけど」
普段は締め切って営業している暗幕のような重苦しい遮光カーテン。
そういえば普段は意識したことがなかったが、この事務所には思いの外大きくて立派な窓があるのだ。
バッと大きく開かれたカーテンのむこうには、さっき外で目にしてきたのと変わらずに大粒の雪がバサバサと風に舞う光景があった。
カーテンの断熱効果が消えた上にこんな寒々しい景色を見ていると、今が冬だということを心底思い出す。
要するに寒い。
窓辺で雪に夢中になっている子供のようなやつはブラックコーヒーを飲めるのだろうか?
などと思いつつエスプレッソマシンで二人分のコーヒーを淹れてやった。
「おい、コーヒー」
「ありがとうございます、いつもすみません」
なんだかいつの間にかこの店ではコーヒーは俺が淹れるものということになっているが、そういうわけじゃないんだぞ。
と思ったけど言わなかった。
まあ、部下のこういう顔を見るために俺が始めたことだしな。
そういえばこの店にブランケットか毛布はあっただろうか。
この分ではどうせ明日は臨時休業だし、仮眠くらいはしておきたい。
「うちに毛布はあったか?」
「ないですけど、私の私物でよければありますよ、ブランケットでよければ」
「……まあそれはお前が使えよ」
「え、寒いですよ半分こしましょうよ」
しつこく拒否するのもどうかと思いそのまま黙っていると、個人ロッカーから出された水色とグレーのブランケットを膝に掛けられて、そのままふたりでソファに腰掛けて雪景色を眺めることになった。
おおよそ数時間前にはまったく想像もしていなかった姿だ。
今日の臨時閉店だとか明日の休業だとか、上司への言い訳とか資料作りのことを考えるとかなり頭が痛い。
部下の前で疲労している姿など見せるつもりはないが、やってくれたなと雪を恨めしく思う。
考え事をするように目を閉じていたらスッと照明が暗くなり、ぎょっとした。
「おい、なんだ」
「この方が雪が綺麗に見えますよ」
「……ああ、そうだな」
能天気すぎて気が抜ける。
窓辺に視線を向けてみれば、確かにさっきよりもはっきりと外灯に照らされる雪が舞い散る姿が見えた。
チラチラだとかキラキラだとか、決してそんな儚げで綺麗な雪の降り方はしていないのに、状況のせいかどうにも少しロマンチックに映った。
コーヒーを持つ手とブランケットがかかった足が温かい。
「店長ここで寝ていいですよ、コーヒー飲み終わったら退きますから、私はデスクの椅子で平気です」
「そういうわけにはいかないだろ」
「いいですよ、私元気だし見張ってますよ」
「何をだよ」
「……上司の来訪とか?」
「それは頼もしいな」
なんだか仕事の事を考えているのがバカバカしくなってきて、今日はもういいかなという気にさえなってくる。
こいつはこんなに能天気なのになんで帝愛で働こうと思ったのか。
それとも能天気だから帝愛なんかにいるのか。
よくわからない女だと思った。
なかなか厳しく当たっても翌日にはケロッとして笑顔で仕事しているあたり、ある意味帝愛に向いているといえば向いているのかも知れないが。
それでもなんというか、もったいない、という気がする。
何をもってして“もったいない”なのか、すぐには思いつかなかった。
「俺と二人は息苦しくないか」
「なんですか急に気遣ったりして店長らしくない」
「なんだその言い草は、俺はいつでも気配りしてるだろ」
「わかってますよ、いつもありがとうございます。だからたまには部下の好意も素直に受け取って下さいね」
「……」
「あ、……私が邪魔なら頑張って帰ります、」
珍しく悲しげに見えた。
いつもヘラヘラしているやつがそんな顔をするとこっちの調子が狂うじゃないか。
別に邪魔だとは思っていないし。
ただ女を一人で起こしておくのはさすがに男としてどうかと思うし、部下に任せて上司が寝るというのも非道だろうと思っただけで。
「邪魔じゃないからそこ座ってろ」
「でも」
「二人で座って寝ればいいだろ、緊張するなら一晩中一人で起きてろ」
「えっ、あっ、でも、あの」
「何照れてんだ、アホか」
「なっ、すみません、いや、なんでもないです」
「それにしてもこんなに降るとはな、村上に連絡しておかないと」
これ以上突っ込んではいけない気がして、話題をそらす。
さっきから妙に花の香りがしていたのはこのブランケットのせいか。
それにしてもまさかこんな所で気づく羽目になるとは思いもしなかった。
こいつが女だとかそういうことを意識していたのはむしろ俺の方だったと。
気づいてしまえば何の事はない。
ただ既に簡単に手出しできる相手ではなくなっているし、何よりこいつの上司への思いを裏切るわけにはいかない。
最初から女として扱っていればこんなに拗らせずに済んだかも知れない。
「明日どうするんですか」
「店休だろうな」
「怒られませんか?」
「赤字になるって言えば平気だろ、とりあえず営業時間前までに稟議作って上に出すよ」
「平気ならいいんですけど」
ソファの端と端で分け合うブランケットは、徐々にずり落ちてお互いの片足ずつにしか掛かっていない。
手繰り寄せることもできるし、渡してやることもできた。
「そういうことだから俺は明日早いんだ」
「あっそうですよね、無駄話してすみません」
「いや、気持ちは嬉しい、ありがとう」
「店長」
「ああ、寝る前にもう一回防犯だけ確認してくれ、先に寝る。おやすみ」
「……おやすみなさい」
一方的に会話を終えてまぶたを閉じた。
明日からどうしようか。
……まあ、なるようになるか。
気づかない方がよかったか気づいてよかったのか、考えるのも面倒くさい。
ふわりと漂う花の香りの中で、身を任せるのも悪くないかと思った。