生まれてこの方、人を好きになるという感情が理解できなかった。正確には「好意を持つことはできるけれど、それ以上の熱意を持って人を愛する」ということがわからなかった。
そんな俺が人生28年目にしてようやく感じたこの温かい感情は、何故こうも複雑な場所にピンポイントで刺さってしまったのだろう。
「青山~♡」
「お前に会いに来たんじゃない」
「アタシがいるってわかってて来たなら同じことでしょ」
「違う」
成瀬の事務所に着くや否や当然のように社長(つまり成瀬)応接間に通されて、望んでもいない成瀬との二人きりの空間が出来上がった。
壁に掛けられた時計を見れば、確かに待ち合わせより10分は早く到着してしまった。それは俺のミスだ。彼女が忙しいことは俺だって知っていたのに。そして俺が行くことがわかっていればこいつは確実にここで待機していることは薄々気付いていたのに。
「ナマエは」
「なによもう!! アタシのこともアキラって呼んで!!」
「嫌だ」
「はああ、そういう冷たいとこも好き……」
熱っぽい視線を向けられて思いっきり顔を逸らす。
ナマエに会いたいがあまりに逸る気持ちを抑えられなかった俺に腹が立つ。いい歳してこんなことで舞い上がって。初恋かよ。……初恋みたいなものか。そうか。
納得している場合ではないのだが。
「お茶淹れてくるわね」
「ああ」
助かった。別に成瀬のことは嫌いではない。嫌いではないが、俺にそういう気はないし勘違いされても困る。
相変わらず圧の強い成瀬の相手をするのは疲れるな。盛大にため息をついていると、背後の扉が開く音がした。
「青山さん、遅くなってすみません。ご依頼頂いていた資料です」
天使か。今日も可愛すぎる。
こんなに可愛い上に真面目で仕事熱心、おまけに向上心まであって勤勉で根性まで据わっているというのに、なぜ成瀬の事務所なんかで働いているんだ。行政書士の資格ならもっと他で活かす所があるんじゃないのか。よりにもよって、何故ここで。
「ああ、ありがとう」
「あ、そうだ、ちょっと口頭で説明したい部分がありまして」
「どこだ?」
ナマエは資料を広げながら俺の隣に腰掛けると、写真と文書を照合しながら簡単に説明を続けた。
耳から得た情報は全部脳に叩き込む。それと同時に触れそうで触れないくらい近くにある彼女の二の腕や膝の気配を感じ取り、脳が「かわいい」で満たされていくのを感じた。
仕事とナマエのことがまるで別物のように自分の中に取り込まれていく全能感すらあり、ここに来た以上はナマエについてのどんな些細な情報であってもみすみす逃すわけにはいかないという強い意思を自覚する。
「ここ、ちょっとわかりにくかったですね、メモしておきます!」
「そうしてもらえると助かる」
手書きのメモだと? 一生捨てまい。
付箋紙には癖字ながらも女性らしく読みやすい文字がサラサラと走り、ペタリと資料の上に乗る。白くて華奢な手がめくれたままになっている付箋紙の端を押さえると、その僅かな圧が資料越しに俺の太ももを押した。
こんなどうしようもないことで心臓が跳ねるなんてどうかしてる。
どうかしてる自覚があるだけマシだということにしておきたい。
「ちょっとナマエってば、お客様に馴れ馴れしくしちゃダメよ」
「あっ、すみません、私」
「いや、良い、ナマエの資料はいつもわかりやすくて本当に助かってる。説明も有り難い」
「ありがとうございます」
成瀬の邪魔が入ったができる限り精一杯フォローすると、ナマエは恥ずかしそうに軽くお辞儀をした。
なんて良い子なんだろう。
やっぱりここに置いておくのは勿体無いんじゃないか。
俺が連れて帰るのがベストじゃないか。
俺の所に永久就職するのがいいんじゃないか。なあ。
「あの、その、今日の昼のスケジュールが空いていれば資料のお礼にランチでも」
「行くわ!!!!」
「お前は誘ってないしお前の世話にはなってない」
「アタシと行きましょう!」
「嫌だ」
絶対に目を合わせまいと顔を背け、身体を逸らし、もう全力で拒否の態度を示しているのに成瀬は諦めない。ああ、辛い。面倒くさい。辛い。
視界の端に捉えたナマエは明らかに困っていて、本日二度目の選択ミスを犯したことを後悔した。
確かに成瀬の面前で誘えばこうなることは目に見えていた。
「あー、そうだ、今日は夏目と会うことになってたんだった、誘っておいて悪いが今日は都合が」
「あ、はい、私は全然」
「アタシも一緒に行く!」
「いや、仕事の話するし1年先まで予定でいっぱいだから」
成瀬がわーわー喚いている隣で急いで資料をまとめ、どさくさに紛れて彼女の耳元で「後で電話する」と呟けば、緊張した表情の彼女が僅かに頷いた。
電話の先は他ならぬこの事務所の受付固定電話で、もちろん彼女の個人番号など知るはずもない。彼女が間違いなく俺の電話を受けてくれることを念押しするつもりの行為だった。
公私混同…… も、悪いことばっかりじゃないしな。うん。そうに違いない。
「それじゃ、」
「また」と声に出さずに口の動きでそう伝えるとナマエは手を振って俺を見送り、俺は成瀬を振り切るようにして事務所を後にした。
後ろ髪を引かれるような思い半分、逸る気持ち半分、複雑な気持ちを抱えたまま歩みを進めて車に乗り込んで深呼吸する。はあ。深呼吸なんてなんの役にも立ちやしない。
高鳴った心臓を抑えきれないままにスマホを取り出して通話履歴の一番上にあった「成瀬(事務所)」をタップして、念の為もう一度深呼吸してから耳元に端末を寄せた。
数回のコール。
『……はい、成瀬探偵事務所です』