第一印象は「最悪」以外の何物でもなかった。
低い天井、下品な笑い声、絶対足りてない換気口。それに、近すぎる席と席の距離感。絶句した。僕にこんな狭い場所で食事しろっていうの? そう思って彼女を見たら、いつもの間抜けな顔で「ここはお酒が美味しいんだよ」ってヘラヘラしてるから何も言えなくなった。
渋々彼女がおすすめするお酒を口にすればそれは確かに美味しくて、普段なら絶対食べないし食べたいとも思わない庶民の食事もそれによく合う肴だった。
それから極々稀にあの店に行くようになって、最近はお互いに忙しくて中間地点ほどの立地で夜遅くまでやってるあの店は都合がよくて、今となってはなんだかんだ僕まで店主に認知されてしまうくらい通っていた。
今でもあの時の印象と変わってないし、好みかどうかで言えば間違いなく僕の好みではない。どちらかといえば嫌いだ。あんな狭い店。……お酒と料理は確かに美味しいし、店主だって悪い人じゃないけど。そういう問題ではない。
「変じゃない?」
「僕が選んだ服が君に似合わないわけないでしょ」
だけど今日は違う。
数ヶ月も忙しくしっぱなしでやっと落ち着いたんだから、少しは落ち着ける場所で食事を楽しみたい。久々に僕が気に入っているドレスコードのあるレストランで食事をする。もちろん広々とした空間だし、ワインだって料理だって絶品だ。
前もって選んでおいた靴とワンピースは彼女によく似合っている。お揃い、とまではいかなくてもテイストを揃えたジャケットを着てきてよかったと思った。
レストランの入口に来て急にそわそわし出した彼女の腰を抱いて「背筋伸ばして」と言えば、素直に言うことを聞いた背中がしゃんと伸びる。僕を見上げてから頷いた彼女は凛としていて美しかった。
「久しぶりだからちょっと緊張して」
予約していた席に通され、対面に腰掛ける。夜景が一望できる君のお気に入りの席。案の定彼女はすぐにそちらに視線を向けて、瞳をキラキラさせていた。僕からはそんな君の姿が夜景の中に溶け込むように見えてるって、君は知らないでしょ。
僕のことなんかまるで気にしていないように夜景に見惚れる彼女がおかしくて可愛らしくて思わず笑ってしまう。
「コースで予約しようと思ったんだけど、アラカルトもいいかと思って。気になるメニューあった?」
自分の手元を見つつ、広いテーブルの向こうでようやくメニューに目を通し始めた彼女に問いかけた。
「あのね、この魚料理がいいかな」
「どれ、……がいいの」
「どうしたの?」
びっくりした。僕は今、無意識に隣を向こうとしたのだ。
隣にいるはずなんてないのに。彼女は今、夜景を背に僕の対面にいる。手だって届かないし、足元のクロークバスケットを避けて膝をぶつけてしまうほど近くの席にもいない。ひとつのメニューを分け合うように見なくても一人一冊用意されている。
一通りオーダーしてアペリティフがやってきた時、嬉しそうな顔をしてそれを受け取った彼女と、わざとらしくぶつけ合って「乾杯」などと言うことはない。
「いや、なんでも」
「なんでも、って顔じゃないけど」
びっくりしすぎて自分でもどんな顔しているのかわからない。
まさか僕があの店に馴染んでいたなんて、そんな信じられないことがあるわけないじゃん。あまりにもびっくりして勘違いしそうになるけど、そうじゃない。
「……君が遠いなって思っただけ」
「とお…… え!?」
ほら、君だって驚くでしょ。わかってるよそんなことくらい。
外食といえばドレスコードがあるのが当たり前だった僕が。男女として当然の距離感の今を寂しく思うなんて、今まで想像したこともなかった。あまつさえ、君といればどんな場所だって特別な空間になるんだ、なんて、どこぞの女の敵らしい歯の浮くような事を思うなんて。
もちろんこの店の食事も、僕が選んだワンピースを身にまとう君も、全部楽しみにしていたし堪能する予定ではあるけれど。
僕を見て呆けてる彼女を急かして食事を頼み、久しぶりのフレンチを楽しんで、スマートに会計を済ませば、今日が終わる。
美味しい食事と夜景と彼女。どれも抜かり無く最高ではあった。ただやっぱり物足りないものは物足りなくて、レストランを出た後に肩を並べた時、求めるように彼女の左手を取る。僕の手に馴染む君の手に底しれぬ愛しさを感じたのだ。
「いつものあの店、思ったより嫌いじゃないみたい」