ふわりと懐かしい香りが鼻をくすぐった。
どこかで嗅いだことのある匂いなのに思い出せない。ただ食欲をそそるような、美味しそうな、そんな匂いだ。そういえば腹が減った。
……と思っていたら、自分の涎が頬を伝う感覚でまどろみから引きずり出された。
硬いマットレスにへたれた枕。寝心地の悪いベッドの目覚めはいつも最悪だ。
あー、泊まらなきゃよかった。
ここに来る度にそんなこと思ってる気がする。
軽さ通り貧弱な保温力の布団を剥がすと、自分のちんこが目に入って尚更気分が落ち込んだ。パンツくらい穿けばよかった。
そういえば一緒に寝たはずのナマエさんがいない。朝イチでナマエさんの胸でも見られたらこんなベッドで寝た甲斐もあったのに。
「ナマエさん」
名前を呼んでも返事はない。その代わりにガサガサとビニールを弄るような音や、水の音が響いていた。
……待っててもこちらには戻らなそうだ。
仕方なくその辺に脱ぎ捨てたままにしたパンツを穿いて起き上がる。シャツやらなんやらは面倒くさいからまあいいか。今更裸を恥ずかしがる間柄でもない。
「ナマエさん何してんの?」
「あ、和也おはよう」
「朝飯?」
「そうだよ、今日はゆっくりして行けるみたいだから」
「……ナマエさんが早起きしただけっしょ」
いつもだって今日だって10時には家出るぜ。いつも10時までオレに引っ付いて寝てるのはどこのどいつだっつーの。
呆れながらナマエさんを見ると、オレの言葉を聞き流しつつ鍋を洗っていた。
「ちょっとそんな格好でご飯食べないでよね」
服を着ろと指さされた先には畳んだ服が置いてある。手に取って広げてみると、メンズサイズのTシャツだった。
しかしオレがスヌーピーってどういうセンスしてんだよ……
ワンポイントならまだしも柄でスヌーピーって頭が沸いてるとしか思えない。ちゃんとハーフパンツまで用意してあって、明らかに部屋着セットだ。
「……これナマエさんが買ったの?」
「うん、かわいいでしょ!」
「オレに犬柄っておかしいっしょ」
「見て、お揃いにした!」
よく見るとナマエさんが着ている服は色違いというか柄違いというか、とにかくペアルック紛いのそれで、頭を抱えたくなった。
「これ、オレが着ると思ったの?」
「着ないの?」
「……」
朝食を載せた皿を運ぶナマエさんは、きょとんとした顔でオレを見た。
メイク前の素顔はいつもの変なメイクより全然かわいくて、頭の上で丸めて結んだ髪が歩くたびに揺れる。そんなんでお揃いの部屋着なんか着たら大学生の同棲ごっこみたいじゃんか。
オレの人生にまったく必要の無いプラン。興味もないし、なんなら蔑んでる。
……とは言えだ、オレより何歳も歳上のナマエさんがこんなことをしているのを見ると、ある種のイメージプレイのような気さえして、それなら付き合ってやってもいいかと思えてしまった。
大体彼氏でもない男に部屋着用意して朝食まで作るなんて、いい歳して何やってんのと言いたくなる。
「まあ、……着てもいいかな」
「なら早く着て、ご飯食べよう」
ナマエさんに急かされるままにダサいTシャツとハーフパンツに身を包み、朝食が用意された席についた。
ああ、今朝の匂いの正体はこれか。焼き鮭、出汁巻き卵、味噌汁、おひたしなんて、今時ドラマでも見ないようなオーソドックスすぎるメニューに笑う。
「やっぱそれ似合うね!」
「……そうかな」
「買ってよかったー」
変なセンス。これほど嬉しく思わない褒め言葉も珍しい。
オレたちを傍から見たら脳にお花畑でも咲いてるような感じだろう。
いただきます、と挨拶をして食事を始める。
普段家で食べる家政婦の料理とは違った、素人感満載の料理はこれはこれで悪くないと思った。
「ナマエさん料理得意?」
「うーん、得意とは言わないけど好きだよ」
「ふーん、美味いよ、味噌汁ちゃんと出汁取ってるじゃん」
「よく気づいたね、うれしい、ありがとう」
ナマエさんは驚いたあとにはにかみながら味噌汁をすすった。
あ、なんかその照れた笑顔久しぶりに見たわ。
時々じゃなくて毎日この家にいたら、毎朝こうやってふたりで朝飯食べたりするのだろうか。素人っぽい飯がどんどん上達していくのに、気づかずに毎日食べたり。あれが美味いこれが美味い、もっと濃くして薄くしてなんて言って、オレの好きな味になったりするのかな。
ちょっといいかもなんて思っている自分がいた。
しかし今日のナマエさんはダサいTシャツのくせに妙にかわいくてむかつく。へらへらしながら同じ飯を食べているだけなのに。
「どうしたの?」
「いや、」
「変なのー、不味かったら言ってよね」
「うん、ナマエさんかわいいと思っただけ」
「ブッ!!」
汚ねえな。
とは言わず、ゲホゲホと荒く咳払いするナマエさんにティッシュを箱ごと渡してやった。
なんか平和だよなー。やっぱここにいると感覚狂うわ。
あー、仕事したくねえな。今日は1日中ここでごろごろしてたい気分。
散らかしたテーブルと汚れた顔を拭うナマエさんはアホかわいい。
かわいがりたい。
「びっくりした」
「本当のことだよ」
「……和也もかわいいよ」
「ソレ、全然嬉しくない」
あー、出掛けんのやめようかな。
窓から射し込む光がキラキラとナマエさんの顔を照らした。こんな所までドラマみたいで、差詰めこれは新婚夫婦のワンシーンだ。
「好きって意味」
「あっそ」
出掛けんのやめた。
米ついてるよ、
と話しかけて伸ばした手でナマエさんの顎を捕え、身を乗り出して朝一番のキスを贈った。