※蒼生くんがやや気持ち悪いかも知れません
刺激的。一言で表現するならば、この感想がぴったりだろう。
霞の中に生きるような掴みどころのないヒロインは、小悪魔的でありながら母性を感じさせる魅力があった。ヒロインに溺れていく主人公の姿には思わず感情移入してしまうほど。
いわゆるメリーバッドエンドと呼ばれる類のものかも知れないが、それでも彼らの物語は紛れもなく幸せなラブストーリーで、やはり都築先生は稀代の天才ではないだろうか。
発売されたばかりのその小説を一気に読み終えた俺は、余韻に浸るようにお気に入りのページを何度も読み返した。
「荒木田くん、いらっしゃい」
「は、あ、こんにちは、お邪魔します」
紆余曲折あって都築先生に俺が寮生であることが知れ、取材を受けることに決まったのが一週間前。一週間などあっという間に過ぎ去り、今日こうして取材のために都築先生のお宅を訪れると、都築先生のパートナーが俺を出迎えてくれた。
その実、彼女が都築先生の恋人なのか仕事上の付き合いなのか親友的な存在なのか、いずれもはっきり知らない。都築先生に「パートナー」として紹介されたのだ。
「もう少しで来るから、こちらへどうぞ」
案内されるままにソファに座ると、しばらくして彼女が紅茶とクッキーを運んで俺の前に置いた。円形に絞り出したクッキーの中央にはジャムが添えられている。
このクッキーは、もしかして、あのヒロインが作ったクッキーのモデルでは……?
「もしかしてこれ、」
「あ、ごめん、手作りとか苦手だったかな?」
「いえ違うんです、美味しそう、です」
――黄金の生地の縁は褐色に色づき、中央のジャムは宝石のような艶がある。ガーネットと琥珀。彼女が持つ角皿が宝石箱のように見えた。
絶対そうだ。このクッキーはあのヒロインが甘党の主人公に差し入れたものだ。ローテーブルに置かれた角皿はまさにあの一節そのものだ。
「すみません、写真撮っても良いですか」
「えっ写真!? は、恥ずかしい、けど、どうぞ、こんなのでよければ」
「ありがとうございます」
こんな素晴らしい“作品”を崩すのは恐れ多くて、しかし手を付けないわけにもいかなくて、苦肉の策として写真に収めることでお茶を濁す。
くそっ、大して写真のセンスが無いことが悔やまれる。
「そんなに気に入ってもらえるとは思わなかったな、よかったら持って帰る? たくさんあるのよ、素人の手作り品だけど」
「ぜひお願いします」
「ふふ、帰りまでに用意しておくね」
「ありがとうございます!」
感激だ。まさかこんなサプライズに出会えるなんて。そうか、彼女があのクッキーを。そう思ってぼんやりと彼女を眺めてみると、改めてその容姿が目に飛び込んできた。
女性らしい柔らか(そう)な髪はまとめられて清潔感があり、痩せすぎず太すぎず程よい肉付きは他人に強いインパクトを与えない。一言で表すなら「普通」だ。見た目には目立つ印象が無い。それでいてためらいなく破顔させる姿にはどことなく「いい人」を印象付ける魅力がある。
いや、もちろん俺が彼女に異性として惹かれているという話ではなくて。あくまでも一般論としてであって。
それはともかく、これはつい先日、別の“彼女”に感じたことのある印象だった。あのヒロインに。
「待たせたな」
「都築先生、お邪魔しています」
「こちらこそ呼び立ててしまってすまなかった、忙しい中感謝する」
「いえ、お役に立てるだけでも光栄です」
血色の悪い都築先生はフラフラと現れて丁寧に挨拶をしてから対面に座った。大丈夫なのか、めちゃくちゃ体調悪そうだが。しかしパートナーであるナマエさんは至って普通の様子だし、人気作家ともなればこのくらい日常茶飯事なのかも知れない。
下手に気を使っても仕方がないと思い直してお辞儀をすれば、都築先生はICレコーダーのスイッチを入れる。いよいよ取材か。緊張する。都築先生にとって悪い答えにならないと良いけれど。
そう心配していたのも最初だけで、ナマエさんのサポートもあってか終始和やかな様子で取材を終えた。ふと時計をみると二時間も経っている。
「おかわりどうぞ、誠さんも」
「ああ、ありがとう」
「ありがとうございます」
一息ついた所でタイミングよく出されたのは、さっきとはまた香りの違う紅茶だった。都築先生もその違いに気付いたようで、香りを楽しんでから口に含む。そういえばあの小説にはこれに似たような描写もあったような。そんな時、あのヒロインは……
小説の中のヒロインの姿を思い出しながらナマエさんの様子を伺うと、彼女は都築先生の姿を見て微笑んでからキッチンに姿を消した。そしてそれに気付いた都築先生は目を細め、彼女の後姿に暖かい眼差しを向ける。
小説を切り取ってきたようなシーンに息を呑んだ。
「彼女の淹れる紅茶は美味いと思うのだが、どうだ」
「美味いです。あの、さっきと茶葉を変えてあるのも」
「ああ、よく気付いたな」
「ちょっと誠さん、ごめんなさい、電話!」
そこへナマエさんが慌ただしく戻ってきて、都築先生にスマホを渡す。スマホを介して手と手が触れた。そこに気恥ずかしいような男女の気配はなくて、何年も寄り添った夫婦のような信頼や愛情すら感じた。
思わず凝視していると都築先生と目が合ってしまった。気まずい。が、ここで逸したら余計に気まずい。
「悪い、少し電話してきていいか」
「はい、お気になさらず」
「すまないな」
……よかった。都築先生はあまり気にしていないようで、ナマエさんと入れ違いに出ていってしまった。
「これ、お土産のクッキー」
「あ、すみません、ありがとうございます」
例のヒロインのクッキーは綺麗にラッピングされ、ちょっとした贈り物のような出で立ちになっている。あのヒロインもこういう小さなサプライズが好きだった。主人公に届けた忘れ物にいたずら書きを忍ばせてみたり。クッキーに封をするシールの上には、パンダのイラストが描いてあった。
ああ、やっぱり。
“彼女”は彼女なのでは。
創作と現実を混ぜて考えるのは良くないとわかっているのに、その考えを止めることができなかった。
「あの、失礼を承知で伺いたいんですが。ナマエさんは都築先生の最新作をお読みになられましたか」
「最新作っていうと、この間発売になった」
「そうです」
「ああ、あれ。誠さんにまだ読んじゃ駄目って言われてて、読んでないの。“まだ”って言うからには、多分いつかは読んで良いってことだろうし、我慢してるところ」
「そう、なんですね」
情報が氾濫するこの世の中で、すべての情報をシャットアウトするのはなかなか難しいだろう。だけど彼女はそういう所もきちんと守りそうだ。できる限り都築先生の意思を汲んでくれそうな気配がある。
だから都築先生はあんな話が書けたのだ。
繊細な描写の端々に散りばめられた彼女への感情は偏愛とも取れた。あと一歩、何かを踏み外したらそれこそ本当に溺れてしまうような。
フィクションの世界だからこそ許される愛し方がそこにあった。
「バタバタして済まないな」
「いえ、そろそろ帰ります」
「ああ、協力感謝する」
「とんでもない、光栄です。ありがとうございました」
……あの小説は、もしかしてラブレターなのでは。
結局の所、都築先生とナマエさんの関係はわからないまま。どういう関係であったとして、あんなにも暖かい言葉を連ねて好意を表現したいほどの存在であることは明白に思えた。少なくとも都築先生がナマエさんに向ける眼差しが特別なのは、誰の目にも明らかだろう。
並んでいる二人は夫婦のようにも見え、仕事のパートナーのようでもあるし、長い付き合いの友人と言われても頷ける。そんな二人に玄関まで見送られ、どこか幻想でも見ているような気のまま都築先生のお宅を後にした。
特別な一日が終わる。
――僕の体温が君に流れ込む瞬間。君の手に僕の手を重ねると緩やかに握り返される。今この時間が、僕にとって一番幸せな一時だった。君のことだけを考えていられる。君のことだけを考えていたい。ささくれのひとつも愛おしい、白く小さい手の甲に唇を押し当てた。