誠先生は担当を離せない

それは俺にとって悲報…… どころか凶報にも取れた。いつもの担当編集者が復帰するらしいのだ。実家の親の都合で一時的に故郷に帰っていた元・担当編集者が。元ではなかったようなのだ。おかしい。俺はずっと彼女に担当してもらうはずだったのだが?

『違います』
「そんなはずは」
『最初に言いました』

電話の向こう側にいる元・担当編集者は頑なにそれを認めようとはしなかった。

『とにかく、彼女が先生の担当するのは今週いっぱいですから。来週からはまた僕が担当しますから』
「いやだ」
『なに駄々こねてるんですか、京介くんに言いつけますよ』

元・担当編集者は俺の担当への復帰に異常に意欲的なようだ。電話を切ったあと、俺はショックのあまりしばらく動く事ができなかった。
ふんわりと鼻腔をくすぐる甘い香りが部屋に充満してくる頃、つらすぎて涙が出るかと思った。いい年して女性の前で泣くなどあってはならないが、彼女を失うのはあまりにもあまりにも、俺にとっては辛い出来事だったのだ。

「誠さん、書けましたか?」

キッチンカウンターからひょっこりと覗く愛らしい顔立ちの彼女は、小首をかしげてしなやかな髪を揺らした。

「いや、それどころではなかった」
「あ、また例の病気ですね。最近調子よかったのに」
「病気などではない、俺は大事な人を失いかけているんだ」
「えっ」

うっかり物憂げな言い回しをしてしまったせいで、彼女の顔に陰りが見えた。すまない、そんなつもりではなかったんだが。心の中で謝りつつも、今は心配そうに駆け寄ってくる彼女の善意に甘えたかった。

「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
「君は俺の担当編集じゃなかったのか?」
「担当ですよ! サポートしてます!」

ほら、と言って見せた彼女の両手に載せられた皿の上には黄金色のマドレーヌが並んでいる。甘い香りはただの砂糖の香りではない。はちみつの華やかでややスパイシーな香り。それとアーモンドの香ばしさ。
彼女の手が生み出すものは生菓子も焼き菓子も、洋菓子も和菓子も、それこそ甘味ではない食事でさえ、ある種麻薬のような中毒性があった。
俺の疲労を芯からほぐし、リラックスさせてくれる。
もはや俺にとっては無くてはならない存在なのだ。彼女の菓子も、もちろん彼女も。

「ずっとだ、未来永劫、ずっと」
「えっ」
「ずっと俺のそばにいてくれ」
「は、あの、いや、なんと言ってよいか」

つい涙がにじみそうになるのをなんとかこらえ、マドレーヌを指さして「くれないか」と言えば、彼女は「どうぞ」と言って差し出した。
たちまち頬張れば、想像通りの期待を裏切らない幸せの味が口から身体中に広がっていく。

「俺はこの味がなければ生きていけない」
「あ、味……」
「君がいなければ書けない」
「そ、それは大変、です、ね」

俺に跪くようにしてマドレーヌの皿を持ち、心配そうに見上げてくる細い肩の彼女を、どうにか俺に繋ぎとめておく方法はないだろうか。作家と編集者なんて、いつか別れが来てしまうんだ。担当編集者が、元・担当編集者になったように。いや、彼は復帰しようだなんてゾンビのような心意気があるが。俺は彼女をゾンビにしたくはない。

「俺は……」

どうしたらいいんだ?
彼女のマドレーヌがまた食べたい。いつでも食べたい。手の届く所に置いておきたい。彼女を食べたい。

「そうだ、結婚しよう」
「は!?」
「結婚してくれないか、君と一生一緒にいたいんだ」
「えっ、そんな急に」
「君がいなければ俺は」
「はいはいはいはいストーップ!」

盲聾した意識が現実に引き戻される。聞き慣れた京介の声が俺と彼女を引き裂いた。

「ごめんね、ナマエさん」
「いえ、あはは、す、すみません」
「兄貴、いくらなんでももうちょっと段階ってものがあるでしょ」

呆れ顔の京介が彼女をかばうようにして俺を見下ろす。
そうか。そうだった。恋愛小説を書いた事もあるというのに、こんな初歩的なことすら忘れていた。それだけショックが大きかったのだ。

「すまない。俺としたことがあまりのショックに我を忘れていた」
「ショック?」
「ああ、彼女は今週いっぱいで担当編集を降りることになった」
「ええ、ナマエさんもう来ないの!? ヤダなー、せっかく仲良くなったのに」
「すみません、私もついさっき知って」

申し訳なさそうにしている彼女の手から皿を取ってテーブルに置き、その手を握る。初めて触れた彼女の手は柔らかく、ややひんやりとしていた。

「よし」
「あ」
「俺とデートしないか」
「おお……」
「デート」
「取材ではなく、きちんとしたデートを申し込みたい」
「は……」

京介は楽しそうにはしゃいで俺と彼女の顔を交互に見合わせている。彼女の濃い茶色の瞳を見つめていると、それを取り囲む白い肌がフィルターでも掛けたかのようにじんわりと赤く染まっていった。

「わ、私で良ければ、ぜひ」

さっきまで失意にくれていた俺を、彼女はあっという間に楽園に連れて行ってくれる。
やはり君はもう俺にはなくてはならない存在になってしまったようだ。

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