メルル|wish

朝からずっと甘ったるい香りが部屋どころか家中を占拠して、体に染み付いていくのがわかる。発生源はナマエがうろちょろしているキッチンだ。昨夜はドイツの伝統がどうのこうのと言って張り切っていた。

「見て見て、ほら、上手に焼けたでしょ!?」

バタバタと小走りでやってきたナマエの両手にはミトンがはめられていて、頼りなげに持った天板の上には妙にでかいパンみたいなものがのせられていた。
確かに甘く香ばしく、きれいに焼けている。

「初めてとは思えない仕上がりじゃない!?」
「ああ、上手だよ、美味そうだ」

興奮した様子のナマエを宥めるように相槌を打つと、嬉しそうに目を細めた。
ふわふわと甘い香りを放つそいつはナマエに運ばれてキッチンに逆戻りしていく。

「今日のティータイムのお供はそいつか?」
「ちょっと、昨日の話聞いてなかったでしょ、シュトレンは一週間くらい寝かせてから毎日少しずつ食べるんだからね」
「そうだったそうだった」

あんまり聞いてなかったことがバレないように適当に話を合わせ、キッチンカウンター越しの椅子に腰掛ける。
ナマエの話を聞けなかったのは何も俺だけのせいじゃない。あんまり嬉しそうに一生懸命話しているから、それに見惚れて聞けなかっただけだ。

「ああ、一週間後が楽しみだ」
「私も!」
「もうわかるぜ、そいつは美味いパンだ」
「ふふ、そうだといいけど」

ナマエはエプロンのポケットから取り出したメモに印をつけた。
メモを覗き込むと七面鳥やらクッキーやら、“いかにも”な料理の名前の下に材料と思わしき食材がリストになっていた。そういえば確かにもうアドベントの季節だ。街にもそんな広告が出ていたような気がしなくもない。

「メルル、ありがとう」
「何が?」
「これ、プレゼントのこと」

少し恥ずかしそうに視線を逸らしたナマエは、キッチンに埋め込まれたオーブンを指さした。先日たまたま手に入った大金でナマエの希望通りに買ったものだ。本当はもっと色っぽいものを贈ってやりたかったけど、ナマエがそう言うんじゃ仕方ない。何度も確認したけどあれがいいと言い張られては手も足も出まい。
ナマエの希望を叶えるために長らく故障したままだった旧オーブンを取っ払ってその辺一帯をリフォームなんかしたし、リフォーム業者を呼ぶとかでそれなりに大掃除もしたし、まあなかなか大変だったわけだが。こんなにしなくていいと言うナマエの制止を振り切って思い切りリフォームしてやった。
いや、俺としては俺が贈った指輪はめてるナマエが見たいとか、頭のてっぺんからつま先までフルコーディネートした服をこの手で剥きたいとか、そういう願望があったわけだが、それが叶わないというのならナマエの願いを最大限叶えてやるまでの話だ。

「本当ありがとう、ずっとこうやって思いっきり料理してみたかったの」

思わず目を見張って息を呑んだ。
今まで見たことないような表情でそんなことを言うものだから、心臓を掴まれたみたいな感覚に陥る。
こんな気持ちになるのはいつぶりだろうか。初めてナマエを見た時の衝撃を思い出した。そういえばあの時も不整脈かあわや心不全かと己の不摂生な生活を振り返ったものだ。
今はこうして生活のすべてをナマエに握られて心身ともに健康そのものだが。

「いつも世話になってるしな。それにナマエの美味い飯が食えるのは俺にとっても悪い話じゃない」
「ふふ」

自宅のキッチンでエプロンをつけたナマエが微笑みながら料理を作るという猿の妄想のようなシチュエーションが、不覚にも下半身に訴え始めていることに気づいてしまった。
実際にティーンだった頃、こんな絵に描いたような平和が訪れるとは思いもしなかったけれど。そもそもナマエみたいな女と付き合う未来を想像したこともなかった。
随分前に燃えて消えた俺の実家のキッチンは、使用済みの食器が山積みになってそこら中にタバコの吸殻が盛られていて、とても料理を作るような環境ではなかった。
……でもナマエが来る前の俺の家も同じようなものだったよな。数年前の生活を思い出すとげんなりする。おかげでムラッとした気分も萎んでこの雰囲気を壊さずに済んだ。

「ナマエは俺にとっての女神みたいなもんだな」
「女神って」
「大げさなんかじゃないぜ、本当に感謝してるよ」
「最近どうしたのよ、急にこんなに色々されたら死ぬかと思っちゃう」

死なねえよ、と言ってナマエの手からミトンを外して握ると、やっぱり華奢で頼りない。
付き合いが長くなって手を触ることなんてめっきり減った。やっぱりその指に足りないのは指輪だと改めて思う。ナマエの希望はそれとして、俺は俺で自分の希望を叶えるべきだった。

「あ、そうそう、もうすぐマドレーヌが焼けるから、そしたらお茶にしよう」
「俺が淹れる」
「もう、だからそんな珍しいことばっかりしないでよ!」
「いいから」

確かに最近の俺はナマエに尽くしたい欲がすごい。自分でもおかしいくらいに金も時間も気持ちも費やして甘やかしまくっている。
今に始まったことではないが、最近は特に異常だ。かといってやめる気はない。
というか、欲に歯止めが効かない。
一時期ナマエとのセックスに狂って犯しまくっていた時があったが、その時と同じような感覚でナマエに溺れている自覚がある。
正直な所、俺はクズで、クズはクズで変わりなくて、クズなりの表現しかできないのだ。
ナマエがコンロにかけたケトルからシュンシュンと湯気が沸く。ミトンをはめなおそうとしているナマエの手からそれを奪って、俺が紅茶を淹れた。

「あ、そうだ、メルル、クリスマスにもプレゼントが欲しいんだけど」
「任せろ、なんでも言え」
「ツリーが欲しいの。コニファーなら一年中置いておけるし家の中でも大丈夫って聞いたから」
「構わねえよ」

あのへんに、とナマエがリビングの窓辺を指差した。リビングもナマエの趣味で選ばれた家具で溢れている。
昔は他人や他人の物が家にあるなんて不愉快で仕方がないだろうと思っていたが、ナマエやナマエが選んだものというだけでこんなに居心地が良いということは実際に住んでから知った。

「ツリーを買ったらクリスマスマーケットに行こうね」
「ナマエはクリスマスが好きなのか」
「うん、本当はすごく大好き」
「俺のことは?」
「フフ、なにそれ、好き」

オーブンから天板を取り出しながら、ナマエが笑う。簡素な返事に焦らされているような気になって天板を置くのを確認してから後ろから抱きしめると、ビクッと肩が震えた。
驚かせてしまったことに謝りながらもう一度同じ質問をする。

「ちゃんと言えって」
「言ってるよ、好きだよ」
「それだけか?」
「……大好きだよ」
「最上級でそれか? 随分控えめな表現だな、さすが日本人だ」
「からかってるでしょ」

腰に巻き付いた俺の手にナマエの手が重なった。
名前の首筋に顔を埋めるといつものいい匂いがふわりと鼻をかすめ、それは焼き菓子の香りよりも遥かにいい香りだと感じる。

「愛してるよ、いつもありがとう、メルル」

この言い様のない多幸感を、世間のやつらはどう処理しているのだろうか。
何をどう言えばこの気持ちをナマエに伝えられるのか。言葉にまとめることなんて到底できやしない。
腕に力を込めると、すぐにナマエが手を握ってくれた。

「俺はクリスマスに過ごす相手がナマエで良かった」
「私も同じよ。 ……あのね、せっかくツリーを買うんだから、やっぱり、その、来年も一緒に飾りたい」
「当たり前だ、俺もそのつもりで買うって決めたぜ」

あそこにツリーを置くだろ?
今年からキープセイクオーナメントを買って一緒に飾り付けしよう。
“星”選びはナマエがやる。
そんなことを話しながらマドレーヌを食べた。ナマエが選んできた紅茶は焼き菓子によく合って、温かい日差しの午後にちょうどいい安らぎをくれる。
一緒に過ごす時間に比例して増えていくナマエの気配がこの家を癒やしの場所にした。
この家がいつまでもそんな存在であればいいのに。
毎年オーナメントが増えていくツリーを想像しながら飲む紅茶は最高に美味しかった。

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