※汚れた手の続き
破格の家賃のアパートの扉はとてもボロくて、私はその修理によく手を焼いた。原因は明白である。
バキッ、ガチャン
という木が割れる音と金属の落下音が聞こえると、いつものそれはやってきた。
「いきなり帰るな」
メルルは私の部屋のドアをしょっちゅう壊す。ボロいドアの鍵ごと無理矢理開けるから。
「……二度と顔見せないでって言ったでしょ」
ベッドの上で薄い毛布にくるまりながら悪態をついた。
本当に顔なんか見たくなかった。もうあれで終わりにしたかったのに。最悪だったけど、拗れまくった私たちの最後なんてあれでよかった。
もうこれ以上拗らせたくなんかない。
メルルに肌ひとつ見せたくなくて、毛布の端っこを寄せ集めてギュッと握った。呼吸で顔のあたりがモヤモヤと暑くなる。
早く帰れクソ野郎。
「よく考えた」
「もういいから帰ってよ」
「たしかに俺は腰抜けのクソだせえ男だと思ったぜ、ナマエにああ言われるのも無理はねえ」
「私はダサいオッサンなんか興味無いから帰って」
「ダサいって言うんじゃねえ、お前もいい加減にしろ」
少し強い口調のメルルの声と同時に、くたびれたブーツの底が床と擦れる音がして、私の毛布なんかあっという間に剥がされた。
抵抗したせいで情けない姿を晒してしまった。慌てて摩擦でずり上がったタンクトップの裾を直す。
そんな私を見てニヤニヤしているメルルが憎い。
「好きなんだろ、俺を」
「もう好きじゃない」
「本当に?」
私の態度など気にすることなくぐいぐいとこちらに向かってきたメルルは、いきなり額と額を突き合わせて私に問いかけた。
さっきの車内の様子とは打って変わって、余裕すら感じさせる含み笑いを携えている。
私はというと、目の前の男が憎らしくて仕方が無いのに突然の襲来に陥落寸前だった。我ながらチョロいと思う。
でも、それほど私はこの人を待ち望んでいたのかも知れない。
本当に本当にクズみたいな男だということはわかっているし、なんなら私なんか使い捨てでも構わない。ずっとそう思ってきた。
大事にして欲しいなんて言わない。浮気しないでなんて言わない。ちゃんと働け、酒飲むな、煙草吸うな、メスやるな、なんて言わない。
だから一番近くにいたかった。
「メルル」
「なんだよ」
茶化すような口調が、もはや苛立ちを通り越して愛しい。本当はあんなふうになりたくなかった。
ただ、好きって言いたかった。
「愛してるよ」
「予想以上の告白ありがとよ」
ザラッと口元にメルルの無精髭がかすめると、メルルの薄い唇が私の唇に重なった。
こんな誤魔化しみたいなキスなんて全然嬉しくないのに、何故だか涙が零れて馬鹿みたいだ。
どういうつもりなのかまったく読めないメルルに苛立つ気持ちと、少しでも触れていたい気持ちが交互に顔を出す。メルルのことを考えていると、おかしくなってしまう。
2度目のキスは触れるだけで、しばらくすると離れていった。
「もう少し広くてマシな家に住もうぜ、ハニー」
「え、なにそれ」
「つまんねー反応」
「いや、意味がわからなくて」
「広い家に住もうぜ」
「誰が?」
「俺とお前」
「ハニーって何」
「お前」
まさかメルルの口からハニーなんて言葉が出ると思わず、さっきまでの感傷的な気分はどこかへすっ飛んで行った。
何より驚きが一番大きくて、ぽかんとしているとまたメルルにキスをされた。
「おいなんだよ、せっかく腹くくったのに」
「いや、意味がわからなくて」
「早くわかれよ」
「プロポーズ?」
「そこまで言ってねえよ、勘違いすんな」
「違うの」
「おいふざけるな、泣くなよ、なんだよ畜生」
わざとらしく項垂れて両手で顔を覆ってみると、メルルは慌てた様子で私の頭を撫でた。
大きくて温かい手。
大好きな手。
そっと顔から手をどけて、頭の上のメルルの手に重ねると、一瞬ビクッと震えてからすぐに握られて頭上から下ろされてしまう。
「嘘」
「知ってる」
「嘘つき」
初めて体験するメルルとのこの空気感は、今まで私の周りに張っていた壁をボロボロに崩すようだった。
メルルの前でこんな風に笑うのなんて、いつぶりだろう。優しく笑うメルルの顔を素直に愛しいと思った。
メルルはベッドに膝をつくと、古いスプリングを軋ませてまた私にキスをした。顔に似合わない啄むようなキスが心地よい。
少しずつ私を押し倒すように体重がのしかかり、ごとんごとんと重たいゴムの塊が落ちる音がして、メルルがブーツを脱いだのだとわかった。こんな流れ、どう考えたってセックスするつもりに決まっている。
有り得ない。いい雰囲気で気にならなかったが、メルルは今でもその襟にあの女のチークをつけているのだ。
つい数時間前のように、私は拳でメルルを突いた。
「っおい、なんだよ」
「なんだよじゃなくて、初めてする時くらいもう少しまともな状況の時にしてよ」
「……」
「ほかの女と同じ日になんてしたくないんですけど」
「……まあな、」
渋々だったものの諦めたようで、メルルが私のベッドに寝そべる。隣に寄り添うように寝転ぶと、すっと腕が伸びて腕枕をされた。
「どうしよう」
「なんだよ」
「女くさくてむかつくのに、すごく好きだから」
「女くさくて悪かったな」
「もうしないの?」
「しねえ」
「……してもいいけど」
「ふーん」
「するの?」
「しねえ」
逞しい二の腕の寝心地は思いのほか良くて、肩を抱かれるとこのまま眠りについてしまいそうになった。
願わくは、毎日この時間が訪れることを。