嘘でしょ、なんでこんなおしゃれな店!?
週末の残業を終えて所長と二人で事務所の戸締まりをすると、エスコートされるがままにたどり着いた店は随所に間接照明のインテリアが目立つダイニングバーだった。
やだな、こんな店。また所長のことばかり考えてしまう。こんな薄暗がりで見る所長なんて、ただでさえかっこよさ10割増しに違いないんだから。
「さっきから挙動不審すぎない?」
「だ、だって、もっと雑然とした店を想像していたので」
「アタシがそんな店連れて行くわけないでしょ」
いや、だって歓迎会なんか「この時間に空いてたから」で選んだそのへんの居酒屋だったじゃないですか。とは言えず、口ごもる。
そんな私をよそに所長はスムーズに二人分のお酒と食事を注文した。それから間もなくしてワインとオードブルが運ばれて来る。
ところで私は、事務所を出てから今に至るまで何もしていない。
「所長、何から何まですみません」
「ちょっと」
所長が眉根を寄せて嫌そうにそう放ち、やや芝居がかったように人差し指を立てて私に忠告した。
「プライベートで『所長』はやめてよ」
所長の口からそんな言葉が飛び出すとは思わず、なんの言葉も出てこない。
驚きは1つではない。2つだ。1つ目は所長が今をプライベートだと認識していること。そして2つ目はおそらく遠回しに「名前で呼べ」と言っていること。
ここはなんだ、天国かなにかか。私は死ぬのか。大好きな所長が10割増しのかっこよさでそんなことを?
「なんか言いなさいよ」
「え、っと、それではなんとお呼びすれば」
「アタシの名前は知ってるでしょ」
「知ってます、けど」
明さん…… は、さすがに調子乗りすぎだろ。自分で自分を殴りたいわ。
「成瀬さん。でいいですか」
「まあ別にそれでいいけど」
「成瀬さん、へへ」
私と彼の間には何も起こるはずはないと思っていたのに、ここ数週間で目覚ましい進歩を遂げた。
プライベートな空間に所長、ではなく“成瀬さん”と二人でいられるなんて、本当に本当に夢心地で、こんなのもう我慢できない。
昨日釘を刺されたばかりだというのに、私はまた成瀬さんを思って自分の世界に飛んだ。
「今日は話があるのよ」
「え、」
さっきまでの夢心地が一転、次に私を支配したのは動揺だった。
まさかクビだろうか。名前で呼べとかプライベートだとかいうのも「今日からアンタはアタシの部下でもなんでもないから」という意味だったのかも。
それなら私の勘違いも甚だしいところだけれど。
「昨日の続きだけど」
「あっ、しょちょ、な、成瀬さんの女の子のタイプの話ですか?」
「バカッ、違うわよ、そんなことどうでもいいでしょ! 重いって言ったこと気にしてるんじゃないかってずっと考えてたのに、心配して損したわまったく!」
珍しく本気で怒っている成瀬さんは、そう言い終えると一気にワインを飲み干して二杯目を頼んだ。
そうか、昨日成瀬さんの顔が晴れなかったのは私のことを気にかけてくれていたからだったのか。私のことを。……嬉しい。
「何ニヤニヤしてんのよ」
「へへへへへ」
「不気味だわ」
表情こそ訝しがるようだけど、昨日よりずっと晴れやかな表情をしている気がした。ストンと胸に落ちて、奥の方でじんわりと温かくなる。
成瀬さんが私の意見を一切聞かずに選んだお酒も食事もみんな美味しくて、もしかして成瀬さんと私は食事の趣味がとっても合うんじゃないだろうか。
嬉しい。楽しい。しあわせ。
……そうやって温かい気持ちが増えると同時に、同じくらい胸が苦しい。
成瀬さんがマトリだった頃、青山さんとこうして食事をしたこともあったと思う。その時の成瀬さんは、きっと今の私のように青山さんを思って温かな気持ちになったのだろう。
せっかく関係が進展したというのに、成瀬さんが思う彼のことを考えると途端に息苦しさを感じた。
こんな時にそんなこと考えなきゃいいのに、目の前で楽しそうにしている成瀬さんを見ていると、どうしても青山さんがちらついてしまう。
「成瀬さんはどうして青山さんが好きなんですか」
「どうしてって、愛に理由なんか必要?」
「接点がなくなった今でもそこまで思えるって、本当に好きなんだなぁって思って」
「アンタが思うほどではないわよ」
「どう見ても好きですけど!?」
「うふふ」
青山さんのことを語るにしては随分穏やかで、ふと小さな疑惑が芽生えてきた。
私はずっと成瀬さんは裏表のない人だと思っていた。私の前でも青山さんの前でも、いつもの乙女モードは相変わらずだったし、その気持ちを隠すこともしない姿がそう思った理由だけれど。
よく考えてみれば依頼者の前や面接の時は完全な男性モードに切り替えていたし、そうでなくてもいつ何時も同じ態度でいるなんて無理に決まっている。
高いテンションで青山さんのに恋をする成瀬さんは、表向きの姿かも知れない。
その可能性に思い至ったのは今が初めてだった。
「確かに青山は完璧すぎるいい男よね~」
青山さんの人となりは成瀬さん経由でしか知らないけれど、顔は確かに整っていた。女子たちが群がって王子様と持て囃していてもまったく違和感がない。
「イケメンで料理上手で金銭的に潤ってるなんて、非の打ち所がないわ」
「少女漫画みたいですね」
「きつく当たるように見えて、ちゃんとフォローだってしてくれるし、何より本人があんなに努力家じゃあね。アタシの理想の“先輩”よ」
「彼氏の間違いじゃないですか」
あはは、と笑いながらつっこむと、成瀬さんはまた穏やかに微笑んで「先輩」と言った。
先輩?
「離れてみて気づくことってあるわよねぇ。一緒に働いている時は、もう二度とこんな素敵な人には出会えないだろう、この人より愛せる人なんていないなんて思ったりもしたけど」
「好きじゃなかったんですか!?」
「やだわ、好きよ。好きだけど、好きにもいろんな形があるでしょ。アタシね、青山に『お前は憧れと恋を混同している』って言われてフラれたの」
初めて語られる青山さんとの具体的な恋愛エピソードに、自然と茶化す空気でもなくなってしっとりとワインを口に運んだ。
さっきまで脳内を駆け巡っていた成瀬さんと青山さんに関する悲喜こもごもは息を潜め、ただただ成瀬さんの話を受け止める。
「そんなことない、って否定したんだけどね。実際に離れてみたら『そうだったかも』なんて納得しちゃう自分がいるのよねー」
「恋じゃなかったって思いますか?」
「それはわからない。でも、確かにアタシは『青山みたいになりたい』って思ってた、というか今でも思ってるんだけど。もちろんそういう恋もアリだけど、アタシたちってどうなのかしらと思ったわけ」
青山さんみたいになった成瀬さんと、青山さんを想像してみる。
それはそれで、まあ、成瀬さんが幸せならいいんだけれど、そこにいつもの楽しそうにはしゃいでいる成瀬さんは居ないように思えた。
「アタシが青山のような素晴らしい人物になれたとして、青山はそれを望んでいるのかしら。望んだとして、そうなったアタシを青山は恋人として見てくれないと思うの。それで多分アタシ、例えば青山に『俺と真逆になったら恋人になってやる』って言われても『そうするわ』とは言えないのよ」
それくらい、青山に憧れてるのよねえ。
そう呟いて遠くを見つめる成瀬さんは大人の顔をしていた。すっかり年齢という概念が吹っ飛んでいたけれど、それなりに大人なのだ、私達は。
成瀬さんが青山さんを好きになって、今みたいに言えるようになるまでの心情を思うと、心臓が引き絞られるようだった。
「ま、なんというか、現実的に考えてみたら無理よねー。でも今のアタシだったら、もしこれが恋だとしても『憧れ』って形で残しておくことが、悪くないなって思えるのよ。言っとくけど青山のことはもちろん大好きよ、愛してるわ」
いつになくたくさんお話してくれる成瀬さんに相槌を打ちながら、ひとつひとつ飲み込んでいると、なぜか感極まって泣きそうになってきた。
悲しいとか辛いとかそういうのではなくて、ただただ成瀬さんが恋しくて、もし私のこれが“憧れ”だったとしても、今あなたに触れたいと思ったのは嘘ではないんです。
こんなおこがましい気持ちで泣くのはどう考えても失礼で、今にもこぼれ落ちようとする涙を必死に耐えた。
「……だからアンタもよく考えなさい」
それはどういう意味ですか。
知ってたんですか。
なんでそんな悲しそうな顔をするんですか。
どんな言葉も上手く伝えられる気がしなくて、私はただ「はい」と言ってついに膝に落ちた雫を誤魔化すように俯いた。