俺は今、最高に機嫌が良い。
超ひさしぶりに定時上がりして、一杯くらい飲みに行こうかなーなんてちょっと繁華街に顔だしてみたらドタキャン食らったナマエに遭遇して、そのまま一緒に飲んでいる。ダイニングバーの隅っこで小さな丸テーブルに横に並んで座って小一時間。ちょっとしたデートみたいな。
ナマエはかわいいし、素直だし、いい子だし、癒やされるっていうか元気もらえるっていうか。そこに居るだけでなんか特別なのだ。
「あー、今日夏樹くんに会えてよかったー。夏樹くん、ヒーローみたいだったよ」
「大げさな。俺こそナマエに会えてよかったよ、楽しいし」
「いやいや、夏樹くんは誘えば誰でも来てくれるでしょ」
「誰でもいいわけじゃないじゃん?」
「えっ、ああ、まあ、そうだね」
面食らったように瞳をまんまるにしたかと思えば、すぐに微笑んだ。深い意味があったわけじゃないけど、深い意味に取ってくれても良いんだけどなぁなんて若干チャラいことを考えている。
「そういえば今日誰にフラれたの? 男?」
「男っちゃ男だけど、上司だしね、仕事の打ち合わせ」
ナマエは本当になんでもないように笑ってごくりと音を鳴らしながらアルコールを流し込んだ。
「仕事のためにここまで来たのに無意味じゃもったいないし、今日は美味しいお酒の日になってよかった」
「美味しいお酒の日っていいね」
ただ酒を飲むだけじゃない。それなりに美味しい酒と食事は必須で、雰囲気の良い店があって、当然一緒に飲む相手も重要だ。
全部が完璧に揃った、美味しいお酒の日。それっていいな。ナマエも同じ意味で言ってくれていたら嬉しいんだけど?
伺うように微笑みかけてみると、ナマエは相変わらずへらへらと気の抜けたかわいい笑顔をこちらに向けていた。
「かわいい」
「……ん?」
「あ、ごめん、ナマエって笑うとかわいいよね。って思ったら口から出ちゃった」
「なにそれ、笑いづらくなるじゃん、もう」
表情を隠すみたいに口元を手で押さえるけど、どう見てもその向こう側はいつもの半月を描く唇がある。
ナマエはよく笑う。へらへら。けらけら。にこにこ。結構いろんな笑い方を見せる。そのどの笑顔にも、謎のパワーがあるみたいに俺を元気にしてくれるのだ。それはまるで子供の頃憧れていたヒーローみたいで、俺は密かにナマエを尊敬している。
存在だけで誰かに元気をあげられる。俺もそんなふうになれたらいいな。
「夏樹くん、携帯」
「え?」
「鳴ってるよ」
「あ、ほんとだ、ごめん」
ナマエに指摘されて初めてジャケットのポケットに入れっぱなしにしていたスマホが激しくバイブ音を響かせていることに気づく。それはしばらく震え続けていたようで、俺が手にとった瞬間に途切れ、それに続いてポンポンと何度か連続してLIMEのメッセージが入った。
「あー……」
「どうしたの、大丈夫?」
「いや、うーん」
メッセージの送り主は半年前に一度抱いた子だった。その当時は長年付き合った彼氏と別れた寂しさを俺が埋めた形だったけど、幸い彼女とは揉めず、すぐに新しい彼氏ができて俺たちの関係はすぐに元に戻った。連絡取ったり取らなかったり。都合の良い友達。
「友達が彼氏と別れたって」
……困ったな。メッセージを読んで最初に思ったのがそれだった。
『寂しいよ』
『また一緒に飲もうよ』
『会いたい』
彼女は寂しさで苦しんでいる。でも寂しがってる彼女を救いたいとかそういう気持ちになれない。
なんか今の俺って、すごく嫌だ。
いや、まあもちろん笑顔でいて欲しいことに変わりはないんだけど。すっ飛んでいって「大丈夫だよ、今は俺がいるじゃん」なんて言えない。彼女を寂しさから救うより、自分が楽しいことをしていたいって、はっきりそう思う。
さっきまで「ヒーローみたいになりたい」なんて思っていたくせに、情けないし酷いし、なんか、嫌だ。
しばらく通知ウィンドウに表示されたメッセージを眺めていると、ナマエに肩を揺すられて意識を取り戻した。
「あの、……行ってあげれば?」
「え」
「ああ、えっと、私とは別に約束してたわけじゃないしさ」
「この子とも約束してない」
「でも私より、困ってるから。ほら、夏樹くん、ヒーローじゃん」
ナマエが眉を下げて笑った。
笑ったのに、俺はものすごく苦しくてどうしようもなくて、スマホの電源を切ってポケットの奥にしまう。こんな通知、見たくなかった。ナマエにそんな顔させたくなかった。ナマエにそんなこと言われたくなかった。
俺にこの子は救えない。
「俺、ちょっとヒーローなれないっぽいわ」
「は?」
「やー、なんか、どうしたんだろ、ちょっと無理」
「大丈夫? ほんとに、あの」
本心とは無関係に笑顔を作るのは随分慣れているはずなのに、ナマエは随分心配そうに俺を覗き込んであからさまに慌てている。
所在なさげに宙に浮いたナマエの手を掴んでそのまま握りしめると、涙の膜が張ってキラキラした瞳と目が合った。沈黙のせいで変な空気になるのがわかる。だけど上手な言葉が思い浮かばない。
「夏樹くん?」
「行きたくない、って思ったら、俺って嫌なやつかな」
「夏樹くんもそんなこと思うんだね」
「俺も初めて知った。ナマエと一緒に居たいよ」
「な、え、そ、そっちなの、重苦しいのが嫌とかじゃなくて」
「違うよ、ナマエと一緒に居たい。今ナマエが泣きそうな顔してるのも、俺のせいだったら超イヤだなって思う」
もし俺がこのまま意思を閉じ込めたまま彼女の所に行って、その後ナマエはどうするの? テーブルの上にはまだ食事があるし、グラスにはお酒が残っている。ナマエは食事を残すタイプじゃないって知ってる。ここで一人で飲むの? 美味しいお酒の日なのに?
そんなの俺だって本意じゃない。
そもそも誰かを選ぶなんて行為自体、傲慢だし、ヒーローとしてあるべき姿じゃないんじゃないか。
俺がナマエと一緒に居たいって思った時点で、多分俺はヒーロー失格なのだ。
「ごめん、私、勘違いしちゃいそうだから、えっと、離して」
「勘違いじゃないよ、迷惑?」
「迷惑なんかじゃないよ、だけど」
今にも零れ落ちそうな涙をすくってあげたい。でもこれ以上触れるのはまだ許されていない気がして先に進むのをためらった。
俺の手の中でナマエの手が震える。
「夏樹くんは、ヒーローやめちゃうの?」
えっ、そこ?
予想していなかった方向からの質問に答えを探す。
ヒーロー。憧れていたし、今でもなりたいと思うけれど、自分の力が足りない。全方位満足させる、するためだけの力が足りない。俺が駄目人間なのかも知れないし、人間には不可能なことなのかも知れない。
子供の頃からずっと追いかけていた夢を諦めるのって、こんなに苦しいんだな。それも実力不足で諦めるなんて。
俺が自我なんて出さなきゃ諦めずに済んだかも。そう思いかけて、ナマエ相手にそう思わずにいられるわけがないと思い直した。
「うん、やめるよ」
ナマエが自分のせいだとか思わないように、できるだけ優しくそう言った。明るく振る舞えてるといいけど。
「でも私、ヒーローの夏樹くん、好きだった」
「え」
「いろいろ言う子はいると思うけど、私は、……かっこいい夏樹くんが好き」
「それは」
「だから、ヒーローやめないで」
事態も上手く飲み込めないし、言葉の意味もわからない。ナマエが俺に何を伝えようとしているのかわからなくて、血の気が引いていく。
もしかしてそれは「彼女の所に行ってこい」って、そういう意味かな。まあ普通に今更惚れた腫れたで情けないってのは事実かも。
「私のお願い聞いてくれる?」
「……うん、聞くよ」
一度深呼吸をして、覚悟を決めてから頷いた。
ナマエの言うことはなんでも聞こう。最初で最後のお願い事。さっきは諦めたけど、もう一度やるからには例え自分にとって残酷な願い事でも。
「あの、……み、みんなのヒーロー、やめちゃうなら、私のヒーローになって、ください」
「は?」
「ご、ごめん、今すごく恥ずかしいこと言った、今の無し、ごめん!」
「ちょっとまって、取り消し禁止」
「やだ、恥ずかしい」
「俺だってやだ、ナマエのヒーローになりたい」
「えっ」
「なりたい、ならせて、ナマエのヒーロー」
目の前がパーっと明るくなるっていうのを、初めて体験した。そうだ、そういうヒーローもいた。自分の大切な人だけを守るヒーローだって存在していいんだ。小さな範囲かも知れないけど、それでも大事な人は守れるんだから。
今まで守っていた人を捨てる、なんて考えるから駄目だった。一番大事な人を泣かせたくない。一番大事な人を笑わせたい。それでよかった。
自然とナマエの手を握る手にも熱がこもる。ああ、手を離すのは嫌だけど、抱きしめてキスしたい。
「俺がナマエの笑顔を守るから、絶対」
「恥ずかしい……」
「俺全然恥ずかしくないからキスしてもいい?」
「えっ、急に」
「我慢しろって方が無理でしょ、するよ」
「な、ここお店だけ」
ナマエの言葉が終わる前に軽く噛み締めていた唇を解くように自分の唇を重ねた。さすがに公共の場でこれ以上深くキスするのは無理だけど、今の俺には十分すぎるほど十分だった。
名残惜しさしか感じないナマエの手を離して、すぐに店員を呼んでクレジットカードを渡す。店員を待つ間に自分の酒とテーブルに残っていたピンチョスと野菜のなんかを平らげ、ナマエのグラスを取ってそのまま渡せば、勢いに飲まれた彼女はそのままぐいっと飲み干した。
「次行こう」
「は、はい」
店員からカードと領収書を受け取った流れでナマエと店を出てすぐに腰を抱く。それがどういう意味か、もうわからないほど子供じゃないよね?
意思確認のつもりでナマエの表情を覗き込むと、ナマエは戸惑ったように目をうるませて俺を見つめた。いやいや。無理でしょ、反則でしょ。
本心はそうであっても俺はもうナマエだけのヒーローだから。泣かせるようなことはしないよ。
「あはは、帰るなら送るからそんな顔しないで。大丈夫、ナマエのことは世界で一番大事にする」
「違うの。ここで『まだ早いよ』とか言えたら、すごくヒロインぽいのにって思って」
「なにそれ、ナマエはもうずっと俺のヒロインなのに」
「……じゃあ、今日は帰りたくないって言っても、ヒロインにしてくれる?」
うっそ、なにそれ、最高。
言うよりも行動が先に出て、もうたまらなくなった俺はすかさずナマエを抱きしめてもっと深く唇を奪った。戸惑う舌を絡めて少しだけ味わうと、その辺を歩いていた酔っぱらいから茶化す声が聞こえる。
忘れてた、ここ外だ。
「俺んち行こ? このままだと俺またヒーローになり損ねちゃう」