言うや否や踵を返して俺の前から立ち去ろうとする彼女の腕を引いた。反射的に取った行動だったせいか力の加減ができず、ナマエちゃんが覆いかぶさるように倒れてくる。
本当ならここで「大丈夫?」なんて言って立たせてあげるのが良いんだろう。いつもの俺ならそうしてた。だけど今この手を離してしまったら去っていくんでしょう?
「ねえ、離したくない」
「羽鳥」
「ナマエちゃんのこと、傷つけてもいいのかな」
俺の言葉が君を悲しい顔にさせること、俺の態度が君に涙を流させること、俺の考え方が君を失望させること。そのどれもが想像しただけで胸が痛む。現実の話でもなんでもないのに動悸までしてくるくらい。
どくどくと早鐘を打つ心臓の音は、多分ナマエちゃんにも聞こえてしまっているだろうな。情けないけど。腕の中にナマエちゃんがいるだけで精神安定剤になる気がして離せなかった。
「わざわざ傷つけたくて傷つけるほど暇じゃないでしょ、もういい歳なんだから」
「ナマエちゃんにそんなことしないよ。俺はさ、俺は」
「うん」
「……俺はずっと君を守りたくて、近づけなかっただけ」
「馬鹿みたい」
くくく、と小さく喉を鳴らす音が聞こえたそばからクスクスと笑い声に変わり、最終的には鈴のようにうふふあははと本格的に笑い出した。
そんな変なこと言ったかな。笑うほどじゃないと思うんだけど。なんて思って様子を伺うように彼女の顔を覗き込んでみると、ナマエちゃんはぐしゃぐしゃの顔で泣いていて思わず目を見張ってしまった。
「あはは、それっていつからの話」
「大学」
「そっか、そうだよね、あはは、もう、ほんと、羽鳥って羽鳥だね」
「なにそれ」
ナマエちゃんの発言の意図がわからなくてきょとんとするしかない。その笑い声さえ楽しそうに聞こえるけれど、すごく泣いている。泣いてるし、俺が俺だとなんだっていうの。
ひとしきり笑って泣いて満足したらしいナマエちゃんは、放心状態のように俺を見上げて一瞬何かを考えると、思いっきり俺のシャツにその顔をこすりつけた。俺の脳裏にはぼんやりと頭突きするヤギの映像が流れ、かわいいな、なんて思う。
もう一度ナマエちゃんが顔を上げると、メイクがよれまくって酷い有様だった。当然の結果だ。俺のパステルピンクのシャツはナマエちゃんの化粧品の何かでキラキラしている。
「このシャツいくら?」
「うーん、覚えてない」
「高いよね?」
「安くはないかな、多分」
ナマエちゃんは酷い顔のままにこりと笑うと、俺の胸元に突進するみたいに顔をぐりぐりと押し付ける。顔をあげて満足げに笑うナマエちゃんが居た場所には、コーラルピンクのキスマークがあった。
その一連の流れがどうにも俺には処理しきれない。愛しさのような何かあったかい感情がふつふつと湧き出すような。堪えきれない言葉にできない気持ちだ。
ずっと昔からナマエちゃんに感じてきた気持ち。
「ねえ、好きだよ」
吹っ切れたような顔をしているナマエちゃんの背中に腕を回して両腕の中にしまいこむ。ナマエちゃんの体重も香りも一心に受け止めるようにぎゅっと力を込めて抱きしめると、今まで放置しておいたものが一気に押し寄せてたまらない気持ちになった。
「ずっと好きだった、今も、ずっと好き」
「わかりづら」
「ごめん。今は信じてくれるかな」
「何を?」
「俺が君を一人の女性として人として大切だってこと」
「……」
……
俺としてはそれなりに覚悟を決めて言ったつもりだったのに、ナマエちゃんからは反応がなくて胸元でもぞもぞと動いている。ふと視線をそちらに向けると、不満げに眉間にしわを寄せたナマエちゃんと目が合った。
「あのさあ」
「はい」
「もっとシンプルにして。変な遠慮もいらないし、今更羽鳥に幻滅なんかしないから」
俺に幻滅するのがデフォルトなの?
頭をひっぱたかれたような肩透かしを食らったような、とにかく俺はなんだか唖然として、その後にこみ上げてきたのはおかしさだった。
理由なんかよくわからないし、というより心当たりがありすぎて絞れない。本当に遠回りをしてきた。その間に多分かっこ悪いとこも汚いとこも見せてきてしまっただろうけど。
それでいて「幻滅しない」って言いきったナマエちゃんに比べて、ほんと、情けなくてごめん。でも好き。
言いたいことはたくさんあるのに全然言葉になってくれなくて、ナマエちゃんの顔を見ると余計に言いたいことも言えなくなった。
すくい上げて鼻先がつくほど近くに寄せて、じっと見つめてキスするくらいしか、俺にはできない。
「ん、っ、」
サラサラの髪。なめらかに指先が通って熱い耳たぶに触れる。華奢な首。柔らかい体を抱いたまま転がると、ナマエちゃんの腕が俺の体を押し戻すように抵抗した。
「ちょっと」
「なんで」
「なんでって私の顔見てよ」
「かわいい」
「そうじゃなくて」
本音なのに。潤んだ瞳も濡れた唇も、汗ばんで張り付いた前髪すら。かわいい。
「ぐっちゃぐちゃでしょ、化粧が」
「それはそうだけど」
「今まで散々遊んできたんだから察してよ乙女心を」
「ナマエちゃんは他の誰でもないナマエちゃんだよ」
もう一度キスしようとしたら今度はぺちんと俺の唇をナマエちゃんの手のひらが封印した。
びっくりした俺の顔を見て笑うナマエちゃんは、俺が知らないナマエちゃんの顔をしていた。もしかしてそれって、好きな男に見せる顔だったりしないだろうか。そうだったらいいのに。
「じゃあ私の言葉で言う」
生憎口が塞がれているものだから、頷くことで返事をした。
「一番かわいい私を抱いて」
「……」
「私でいいんだって自信を持ちたいの。羽鳥との思い出を全部大事にしたい。だから、お願い」
なんでそんなこと言うの?
俺をどうしたいの?
俺にそんな言葉。もったいないよ。
本当に、君を好きでよかった。
ナマエちゃんの手首を掴んで口の封印を解いて、抱きしめながら耳元に顔を寄せた。もう泣き顔は見せてしまったけど、見せたくて見せたわけじゃない。本当は涙なんか見せたくないから。
「ありがと、そうだね。俺も、大事にする」
「うん」
気が急いた行動をして幻滅されたかも、と不安がよぎった所で彼女の言葉を思い出す。このままでいい。
「でも今日は帰したくないな。一緒に寝るだけでいいから」
背中に回された腕にギュッと力が込められて受け入れられた事がわかる。
今までの俺だったら言わない。きっぱりと拒否された後にもう一度誘うなんて絶対にしない。だけどこれからは違う。俺の意見を言って、彼女の言葉を聞いて、それからお互いの丁度いい所を探す。こんなに当たり前のことが俺にとっては何より難しいことだった。
踏み出す前に諦めて、諦めることを肯定して、それで満足したふりをしていた頃にはもう戻れない。
「……まあ、それはいい思い出になるかも」
だってもうこれからは、君と。