メルル|汚れた手

狭いしくさいしボロいし、ステレオもエアコンも壊れてる。おまけにパワーウィンドウですらない車なんて今時有り得ない。

「おいおい、愛車の文句はよせ」
「ホントこんな車でよく女に相手にされてるよね」
「テクニックが違うのよ」

……腹立つ。
バイトの帰り道にたまたま車で通りかかったメルルが、私の目の前に停車して派手なでか乳ブロンド女とキスをした。またね、とウィンクをしたブロンドは、私に目もくれずに街へ消え去った。
仕事終わりにこんな胸糞悪いシーンを見せつけられるなんて。
さっきまで乳繰りあっていたのであろうメルルのシャツにはさっきのブロンドのチークと同じ色の汚れがついていた。
ボロ車の脇に立っているメルルを睨むと、乗ってけよ、なんて声をかけられた。絶対わざとだ。私の目の前であんなシーンを繰り広げるなんて、悪趣味にも程がある。
本当は最低クズ野郎と罵って平手の1発でもかましたいけど、できなかった。あんな女と同じシートに乗るのは嫌だったのに、ラッキー歩かなくてすむしメルルとふたりきりになれる、なんて馬鹿みたいな考えが頭をよぎって、その結果プライドが負けたのだ。

「今の人と付き合ってるの?」
「んなわけねーだろ、取っかえ引っかえよ」
「……死んじまえ」
「そいつは聞けねえ」
「ほんとクズ」

俺みたいな男にひっかかんなよ、と、笑った。
……全部わかってるくせに。やっぱり乗らなきゃよかった。
メルルの近くにいたいけど、近くにいればいるほどメルルが私をそういう風に見ていないことを知ってしまう。今ではもうメルルに気持ちを確かめるまでもないほど知ってしまった。

「やっぱ歩いて帰る」
「帰る所は一緒なんだから乗ってけよ」
「本当におんなじならいいのにね」

精一杯の皮肉を言うと、メルルは苦笑して黙り込んでしまう。
なんでこんなに拗れたんだろう。ただ「好きです」からの「ごめんなさい」という形式を辿れば、こんな風にはならなかったのかも知れない。
私はメルルに好きだと言ったことはないけど悟られているし、メルルは私に付き合えないと言ったことはないけど私はそれを知っている。
けじめをつけない私はずるい。私に暗に察せと行動するメルルもずるい。

「今のお前を失いたくない」
「はいはいわかってますよ」
「俺はお前が大切だ」
「……」

だから他人に大切にしてもらえとでも言いたいのだろうか。
メルルの代わりなんてこの世界のどこにもいないというのに。どんなに最低なシーンを見ても、私はずっと離れられないでいるというのに。

「この腰抜け」
「なんだと」
「そんなに大事なら二度と顔見せないで! もう私に関わんないで、車停め」

私の文句が尽きる前に、激しく横揺れして景色がスライドしていった。
事故かなにかかと思って軽くパニックになっていると、次の瞬間にはメルルの腕に抱え込まれていた。
頬に刺さる無精髭がチクチクして痛い。初めてこんなに触れ合った肌は、とても熱くてすぐそこに鼓動があった。

「お前は馬鹿じゃねえのか、俺なんだぞ」
「……メルルはメルルだよ」
「俺がこんなに大事にしてたのに」
「はあ? 目の前でキスしたくせに私にキズひとつつけてないっていうの?」
「んなもん俺と一緒に生きるのに比べたら大したことねえだろ」

あわや事故寸前の乱暴なやり方といい、不意打ちのハグといい、あまりにも自分勝手な言い分といい。
いい加減私も頭にきた。最低野郎と罵るだけでは到底足りない。
メルルの胸元を握り拳で打つと、まさか反撃されるとは思っていなかったであろうメルルは驚いて軽く仰け反る。ちょうどいい所にあったシャツの襟元を掴んで引き寄せ、思い切りキスしてやった。
恐る恐る舌をねじ込んでみたら、それは案外すんなりと受け入れられて、私の口の中にメルルの舌が流れ込む。求めるように舌を絡めると、それに応えるようにメルルの舌も私のそれに絡んだ。
ぶつかり合う顔が熱い。汗ばんだ無精髭の頬が愛しい。メルルの両頬に手を添えて、なにもかも拗れる前にこうできたら、どれほど幸せだったろうかと思った。
それなのに、今も違う女の化粧品のにおいが漂っている。

「人生で最悪のキスだわ、さようなら」
「待てよ!」

ドアノブに手をかけた私の腕をメルルが掴み、今度は私がメルルに引き寄せられた。苦虫を噛み潰したような顔で私を見つめ、何も喋らない。

「弱虫」

緩んだメルルの手を跳ね除けて、私はメルルの車から逃げ出した。
こんなことになるなら、もっと早く好きって言えばよかった。メルルの好きな所をたくさん知る前に、離れられればよかった。
泣きたくないのに勝手に泣ける。素直じゃない私とメルルの最後らしいといえばそれらしい。
帰りたくないけど、私の家はそこだから、私はメルルの部屋のふたつ隣の部屋に向かって歩き出した。

→続きます

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