Diamànte:恋

今更になって緊張してきた。
やはりここ数日の私はどこかおかしかったんじゃないかと思う。妙にハイテンションで、普段なら出来もしないようなことがスイスイできてしまうような高揚感があった。そのおかげと言うべきか、そのせいでと言うべきか、とにかく普段の私なら考えられない行動力で、私は今ここにいる。

きっかけはどうにもあの怪しげなアルバイトだ。
あそこで“彼”に出会って以来、ずっとなんだかおかしかった。あの日「後日」と言われてから、その「後日」がいつなのかそればかり考えていた。半分冗談だろうと思っていたけど、残りの半分は期待一杯で、多分彼から連絡が来たら私の人生は一変するのではないかとわくわくしていた。
忙しい方だろうから3ヶ月、いや、半年待って連絡が来なければ諦めよう。
そんなふうに思っていたのに、「後日」は意外にもすぐに訪れた。
忘れもしない、あの日から3週間と4日経った日の午後3時、面接官をしていた利根川さんから今日の20時にこのレストランに来るように言われ、それ以来ずっと高揚感に支配されているのだ。

着信履歴に残る電話番号と電話帳に登録した「利根川さん」という文字を何度も見た。
利根川さんは彼ではないのにおかしな話だと今は思うけど、それくらい当時の私は頭に花が咲いていたのだ。
それがいざ当日の19時30分になってみたらどうだろうか。震えすら感じるではないか。

やっぱり場違いだしどう考えても私の手には余る相手であるし、人生が一変して良い方向に転がる可能性がどれほどあるというのか? 第一にこの服で来てよかったのだろうか? コンサバとフェミニンを混ぜに混ぜたようなできるだけ清楚なイメージで来たものの、何かを狙いすぎた感は否めない。
ああ、考えれば考えるほど不安しかない。

緊張しすぎて待ち合わせの30分も前についた。一か八かレストランに入店した所、ウェイターは私の顔を見てすぐに「お話は伺っております」と言って嫌な顔ひとつせずに奥まった個室に案内をした。早すぎる来店をしてしまったにも関わらずこの対応とは……
そんなつもりはまるで無かったけれど、すっぽかさなくてよかった。
あんな恐ろしいパーティーを催すような人だもの、メンツを潰してしまったら何をされるかわかったものじゃない。

「待たせたな」

心臓が止まるかと思った。
あまりにも気配なく現れた彼は、あの日と変わりなく立派な和装に白い髭を蓄えてゆっくりと対面の椅子に腰をかけた。

「い、いえ、そんな、待っていません」
「なんだ緊張しているのか、おや、なんだ、前も同じ会話をしたな」
「そうですね、ふふ、すみません、いつも気を遣っていただいて」
「まあ今日は肩肘張らずに食事でもと思ってな。この空間で起きたことは何事も不問としよう。好きなものを頼むと良い」
「ありがとうございます」

彼の言葉に引っかかりを覚えつつもメニューを開くと見事に値段が書いていない。しかも日本語じゃなくて読めない。早々に試練が訪れた。
焦りつつも彼の言葉を反芻しているととんでもないことに気がついた。
この空間で起きたことは何事も不問、とは。
つまり私が粗相をおかしそうなことが起きる、あるいは起こされる、ということではなかろうか。

「あの、会長さんは空腹具合や好みはいかがでしょうか」
「どうかのう、歳だからな、空腹でもそこまでガツガツしないし好き嫌いも無い」
「そうですか、それなら軽めのコースはどうでしょうか」
「コースか」
「会長さんはお忙しいでしょう、悩む時間がもったいなくて。それに、こちらのシェフなら会長さんの好みを把握してらっしゃるでしょうから」
「カカカ、ではそうしよう」

彼はあの日と同じように上機嫌で高笑いをして、ウェイターを呼びつけると「軽めのコース」と注文をした。
我ながらうまく切り抜けた。ような気がする。
おそらく余計な口出しはするなとでも言ってあるのだろう。ウェイターはこちらに何も聞くこと無くオーダーを受け、食前酒を筆頭に絶妙なタイミングで次々と料理が運ばれた。ワインのテイスティングも無く、本当にただただ運んでは下げる繰り返し。
結婚式のお呼ばれくらいでしかコース料理なんて食べたこともないし、テーブルマナーもかなり曖昧。だけどウェイターに邪魔されないおかげですっかり彼との会話に没頭できた。

「単刀直入にいこうか」
「はい」
「ワシの愛人になる気はあるか?」

目を見開いて言葉に詰まる。まさかいきなりここまでストレートにこの話題を放り込まれるなんてひとつも想像していなかった。
いや、話題に上る可能性としては多少考えていたけれど、そういうのってもう少し…… なんというか、段階があるものだと思っていたし、私が「はい」と答えたら「契約成立だ!」とでも言い出しそうな勢いなのはなぜなのか。

「あの」
「なんだ」
「質問してもいいでしょうか」
「3つまでなら答えてやる」

1つ、もしお受けしたとして、私の生活はどうなりますか。
2つ、私は何を提供して差し上げればいいのですか。
3つ、なぜ私なのでしょうか。
一瞬で3つの質問が浮かんで自分でもぎょっとした。けど黙っていても仕方ない。不問にすると言っていたんだから、と自分に言い聞かせ、ひとつずつ質問した。

「ワシの所有するマンションから好きな場所を選んで住んでいい、生活費もワシがすべて負担しよう。そのかわり、お前に自由は無い。お前はお前のそのすべてを差し出せ」

なかなか強気な条件である。
でも、多分、こんな生活をしていたらちっぽけな見栄のために怪しいアルバイトをする必要なんて微塵も無いのだろう。やっぱりお金って魅力的だよなあ。なんて冷静に考える自分がいる。
実家は特別裕福でもなく奨学金と仕送りとアルバイトで大学を卒業し、中小企業の事務職に就職して1DKのアパートに住んで奨学金を返済しながらカツカツの生活をしている、そんな私とはまったく違う人生を歩むことになるんだろう。
正直、今この場の私にとって気持ちとかよりもずっと魅力なのは金だ。

「承知しました」
「ああ、あとお前を選んだ理由は……」
「はい」
「まあそれは追々でよかろう、言う言わぬで結果が変わる女に興味などない」
「ふふ」

思わず笑う。やだ、こんな人、出会ったことがない。まあ出会った場所が場所で、私が知り合う術もないような相手ではあるけれど。
それにしても男女の関係で感情など無関係だときっぱり言い切るなんてやっぱり変わっている。そんな言葉で女を篩(ふるい)にかけて、面倒くさくない女を探しているの?
金だの契約だのと言葉にしているにしては、随分と感情を大事にする人だと思った。
余裕たっぷりに私の出方を伺うような値踏みする視線を向ける姿が、妙に愛しくて、私も金だ契約だと理解しているくせに感情が肩を押す。
その瞬間、私になにか別の人格が乗り移ったような気になった。

「そうですね、愛人とはそういうものですよね」
「これは契約だ。ワシは金で人生を売る気はないかと提案しているのだ」
「ええ、構いませんよ」
「なに」
「どうぞ、いつからですか」

笑いついでにその提案を受けてみた。そのうち後悔したりするんだろうか。

「あ、でも、あの、私も条件をつけて良いですか」
「場合によっては受けてやってもよかろう」
「私を買うのなら今の私の後始末はしていただかないと困ります」

退職の手続きとか、引っ越しの準備とか、部屋探しとか、純粋に困る。なんなら一層のことすべて飼い主に責任を取っていただこうじゃないか。
その代わり、その瞬間から私は彼の理想に少しでも近付こう。

「なんだ、最初からするつもりだわ、安心せい」
「それなら良かった、よろしくお願いしますね」
「来月お前の家まで迎えに行こう」

私の“今”を終えるカウントダウンが始まった。不思議なことに、なんの未練もないのだ。

タイトルとURLをコピーしました