大丈夫。大丈夫。
言い聞かせてはみるものの、身体はなかなか素直に動いてくれなかった。
次に二人きりになったら120%致すことになるであろう事実に怯えてしまい、不自然なくらい八戒を避けてしまっている。
だって怖いんだもん。溺れてしまうのが。傷つけ合う恋をしてしまうかも知れないのが。一方的な恋の後くらい、穏やかに幸せになってみたい。
好きなのに触れない。好きなのに怖い。
ぼんやりとヤマアラシのジレンマの話を思い出す。
棘に包まれた二匹のヤマアラシは、お互いを温めたいのに寄り添うと互いを傷つけあってしまう。あのヤマアラシたちは結局どうなるんだっけ。
「……」
「……」
「……」
淹れたてのコーヒーを前にして全員無言。八戒は笑顔を浮かべ、私は無表情を貫き、そんな私達を前に悟浄はずっとうんざりしたような顔をしていた。
さすがの私でも気付いているけど、八戒から醸し出すオーラはあからさまに不機嫌そのものである。笑ってはいるけれど、無言だし雑談ができるような空気ですらない。
その原因は至って単純。初めてキスをしてから数日、宿に泊まるにしろ野宿にしろ、ことごとく密室で二人きりになるのを避けてきた。今日だって三部屋空いていたにも関わらず、三蔵と悟空が一人部屋で私達三人が同室というバランスの悪い配置になっている。
当然私の希望であり、私の涙ながらの訴えを断れなかった面倒見が良すぎる悟浄様のお力添えあってのことだ。
「…おい」
悟浄が私の腕を引っ張って耳打ちをする。八戒の眉がぴくりと動いた。
「お前そろそろ覚悟しろよ」
「む、無理……」
「大丈夫だって話になっただろーが」
「だって怒ってるし」
「お前が怒らせたんだろ!」
正論だ。私が怒らせた。私が避けるから。だけどどうやったらその先に踏み出せるのか、もはや自分でもわからなくなっている。
反論できずにぐるぐる考えていると、ガタン、と音を立てて八戒が立ち上がった。
「僕、悟空の部屋で寝ますね。やっぱり三人はおかしいでしょう」
「待て!!」
八戒の申し出に頭が真っ白になっていると、悟浄がすかさず八戒の腕を掴んでそれを静止した。
「おかしいだろ、俺が出ていくのがスジじゃね?」
「……でもナマエはそうしたくないみたいですが」
「こいつは今お前にボケてっから正常判断できないだけだって、俺が行くからお前はここに居ろ」
「僕はナマエの嫌がることはしたくありません」
「お前がそーやって怒るのも嫌がるぜ」
「怒ってません」
私のせいで二人が険悪になってしまい、消えてなくなりたくなる。
私が中途半端なことをしたからこうなったんだ。全部きっぱり断っていれば。キスしなければよかった。好きにならなければよかった。
「うるせえ、もう決めた。お前が出て行こうが行くまいが俺は出ていく。ナマエを一人にしたけりゃお前も出ていけばいいんじゃねーの。じゃあな!」
悟浄は一気に言い切ると八戒を椅子に押し付けて部屋を飛び出して行ってしまった。出ていく瞬間目が合って、少しだけ微笑んだ気がした。
扉の閉まる音に続き、八戒が大きくため息をつく。
「……ナマエ」
「はい」
「僕、ここに居て良いんでしょうか?」
「……」
なんて答えれば良いのだろう。
ダメじゃないのだ。居て良い。だけど、ただ、溺れるのが怖いだけ。
「あの」
「はい」
「……ここに居て、下さい」
八戒は一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐにさっきまでと同じように困った顔をした。
「聞いてもいいですか」
「はい」
「なぜ僕を避けるんですか」
「……恥ずかしい」
「え?」
今度こそ本当にわけがわからないというように、綺麗な顔の眉間に皺が寄る。
そこで初めてどうやら私が彼に対して嫌悪感のようなものを抱いたかと思われていた可能性に気付いた。私は馬鹿だ。そう捉えられてしまってもおかしくない。
八戒の不安をどうにか取り除かなければと言葉を探す。
「八戒のこと嫌いになったとかじゃないから全然、本当に。そうじゃなくて、その、もっと好きになるのが怖くて。きっと八戒はまっすぐ好きになってくれるだろうから……」
うまく伝わっているだろうか?
せめて嫌いになったとか拒絶しているとか、負の気持ちが無いことくらいは伝わるといいけど。
「えっと、私、そういう経験が無いから」
「僕が初めて?」
さっきよりも大きく驚いた八戒はガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、すぐさま私の前に跪いて所在なげにしていた私の両手を握った。大きくて骨ばった八戒の手がじんわりと包む。
誤解させるような言い方をしてしまったと思い、一応真実の言葉を紡いだ。
「ごめん、その、初めてっていうのはこんなに好き合える人と思い合ったのがってことで…… あの、処女ではな」
こんなこと言いたくはないけれど期待させるのも悪いと思ってごちゃごちゃ言っていると、その途中で腕を引かれるとすぐに目の前が暗くなり、八戒に抱きしめられた事に気付いた。
宥めるように頭を撫でられて言葉を失う。
「そんなこと言わなくていいですから」
「……ごめん」
「謝らないで下さい。……僕のことも怖いですか」
「怖くない」
「僕を好きになるのが怖いですか」
「……ちょっと」
「僕があなたを好きになるのが怖いですか」
「怖くない」
ひとつひとつ質問されると自分の心が少しずつ整理されていく。やっぱり悪いのは私。溢れる涙が八戒の服に吸い取られていった。
「僕がそばにいるのは? 怖い?」
「……怖くない、そばにいて」
溺れるのが怖いのに、どうしてこんなに落ち着くんだろう。
もう溺れているのだろうか。もしそうだとしたら。こんなに心地良く溺れる方法があるなんて知らなかった。