Diamànte:今際の約束

「ヒッ!!!」

自分でも信じられないような声が出た。
意識を失うように寝こけていた所から目覚めれば、目の前にこの部屋の主が腕を組んで座っていたからだ。私が起きてその彼と目が合うと、お目覚めか、と言ってにこりと笑った。
な、なにかもてなさないと……
テーブルの上に広げていたテキストやノートを素早くまとめて髪を手ぐしで整える。よだれは出ていないだろうか。今更気にしても仕方が無いくらい穴が開くほど見られていたような気もするけど、それとこれとは話が別だ。

「ごめんなさい、私寝てたみたい、もしかして結構見てた?」
「20分くらいかのう、大して待ってない」
「え!」

意外と待ってた。
でも機嫌は悪くなさそうでホッと胸をなで下ろす。
“待ってた”などと言っているけど約束した覚えは一切ないし、この人が勝手に来ただけだ。私が謝る必要なんか無いのかもしれないけど、この人を前にするとどうもやはり私の立場はうんと下にあるだろうと思ってしまう。
まあこの人のお金で生かされている私は、実際にうんと下の立場の人間なんだろうけど。

「コーヒーかお茶飲む?」
「ほうじ茶をくれ」
「ほうじ茶ね」

100g780円のほうじ茶。
庶民にとっては激安品ってわけじゃないけど、でも彼が飲むにしてはあまりにも安すぎる。この間初めて一緒に行った、大根が1本128円で売られている普通のスーパーで買ったものだ。もう何度か出しているけど、これはこれで良いらしい。
最近私たちの生活は“あえて庶民”になってきた。こうしてふたりでほうじ茶を飲んでいると、このまま彼の老いていく姿を見ながら死ねたら幸せだなと思う。

「ごめんなさい、今日って約束してたっけ?」
「いや、少し暇ができたんで顔を見に来た」
「うれしい」

近場で仕事でもあったのだろうか。彼が少しという時は本当に少しで、大体1時間もすれば行ってしまうことが殆どだ。もう既に30分は経っているだろうから、今からでは本当に一息ついたらいなくなってしまうんだろう。
それでもこうして顔を見られただけで安心する。まだ生きてた。

「それよりお前そこのそれはなんだ」
「えっ、えーと、これ?」
「誤魔化すな、さっきの参考書とノートの話だ」

どうにか注目を逸らそうと最近買った小さなサボテンの鉢植えを手に取ったのに、まったくもって無意味だった。彼は目ざとくそのうしろに隠されたさっきのテキストとノートを見つけ、はっきりと指さしている。
ここは観念して取り出すとしよう。ああ、できれば見せたくなかった。怒られるに決まっている。

「介護とは何事だ、馬鹿者」

やっぱり怒られた。
隠れてやってたんだから少しは見逃してほしい。大体、勉強するのは悪いことではない。資格を取りたかったわけでもないし、今後の身になれば良いと思っただけなのに。

「今の生活の何が不満だ、それともワシが老人だと言いたいのか」

興奮した様子は見られず、ただ淡々と怒っているようだ。
確かに生きていくには十分すぎるほどお金は貰っているし、なんなら家から出なくたって余裕で暮らせるほどだ。名前は忘れたけど彼の部下(?)の人たちが雑用は全部してくれる。
小娘の雑用をやらせても怒り出さないような部下を持つほどそれなりに人望もあって、当然お金はたくさん持っていて、奥さんも子供も持って、彼はとても素晴らしい人だと思う。私なんかより余程も立派だ。
でも人は必ずいつか死ぬ。
彼だってそうだ。
今はまだ介護なんて考えられないかも知れないけど、いつかはきっと思うように体が動かせなくなる時も来る。
この気持ちを上手に伝える術を知らなかった。
だから言えなかったのだ。

「だっていつか死ぬもん」

いろんな感情がごちゃ混ぜになった結果、多分一番よくない言葉が出てきてしまった。
ぴく、と彼の眉が動く。あまり良い気はしていないのだろう。

「……その前に私ができることってこれしかないと思ったから」
「お前がワシを介護するのか」
「そうだよ、私がやりたいの、私を使ってよ」

バカにしたように笑った彼に、私は縋るように言葉を絞り出した。
まるでお前に世話になることなんて有り得ないと言われているようで、悔しいやら情けないやら、彼と出会って初めて、こんなふうにならなければよかったと思ってしまった。
自分の介護の話なんてされたくないのはわかるけど、一生そばに居るための約束事みたいなつもりだった。
でもやっぱり私にその座は高望みすぎだったのだろう。所詮私はただ飼われているだけの存在だったというわけだ。

「なんだ」
「なに」
「お前は実に可愛いのう」

私が結構本気でショックを受けて失意にまみれていると、急にニヤニヤしだした彼が閉じた扇子の先で私の顎を持ち上げてきた。
歪んだ私の顔を見て嬉しそうにしている。相変わらず趣味が悪い。

「やめてよ、」
「やめんぞ」
「なんで」
「ワシの所有物だから」

心臓がはねた。
“所有物”とはっきり言われて、なんだかスッキリした気もする。私は彼のものだからたくさん可愛がってもらえるし、要らなくなったら捨てられるのは当たり前のことだ。
今可愛がってもらえるだけで十分なはずだ。

「安心しろ、ナマエ」
「……」
「そう簡単に手放したりしない、そんなに証が欲しいなら墨でも焼印でもしてワシの名前を書いておけ」
「……証じゃなくて、契約が欲しい」

ワガママを言った。
証なら太ももに平手打ちされる赤いので十分すぎる。できれば消える前に次が欲しい、とは思うけれど。
今私を飼いたい気分だというのは百も承知なわけで、私が欲しいのは死ぬまで一緒にいる権利だ。
強気なことを言って彼を見つめると、彼もまたじっと私を見つめた。
捨てられたらどうしよう。
そんなことひとつも考えずに発言したことを少し後悔した。

「……介護なんかせんでいい」
「でも」
「そんなことお前にさせられるか、馬鹿者め」
「じゃあ」
「最後まで聞け」
「ごめんなさい」

じりじりした気持ちがせっつくように口をこじ開けるようだ。なにか喋っていないと落ち着かない。それなのに彼の射抜くような視線から目もそらせず、まるで生きた心地がしなかった。

「そんなことしなくてもお前はワシの近くに居ればいい」
「息子さんだっているし会社のことだっていろいろあるじゃん」
「……ワシが文無しになったらどうする?」
「なにそれ?」
「ワシが文無しになったらお前はどうする」
「そんなのどうでもいいよ、もらったお金なら全部そこにあるよ、和尊さんが困ったら使おうよ」

私がクローゼットを指差すと、彼は何かを考えるような表情をして私の顎に添えた扇子を帯に戻す。
しばらくお互い無言の時間が訪れたかと思えば、急に笑い出した。
困惑して挙動不審になっていた私の手に、彼の手が伸びて重ねられる。温かくてとても落ち着く彼の手は、よく見るとやはり老いた男性のそれだった。

「お前はワシが思っていたより太いのう」
「えっ、……や、痩せるわ」
「肉の話じゃなくて神経の話だ、ワシはお前の太い所が気に入っている」
「それ褒めてないよね?」
「お前が図太いおかげでワシは安心できるわい」

大層機嫌良さそうな彼は、高笑いしてからぬるくなったほうじ茶を飲み干した。
人間は全員信用できない、金こそすべて、とか言い出しそうな彼の口から、まさか“安心”という言葉が聞けるとは。
私は私で呆気に取られてぼんやりと彼を見つめるしかなかった。

「まああまり心配するな、ワシの最期はお前にくれてやろう、形に保証はないが」
「え、」
「そろそろ行くぞ」
「あっ、あ、え、はい」

立ち上がった彼に急かされるようにして、ハンガーに掛けられた羽織を取って彼に着させた。私の様子など気にも留めない彼はさっさと玄関に行ってしまう。
私はもしかしたら自分が思っていた以上に、彼から愛情のようなものを貰っていたのかも知れない。当然のものや適当なものでなくて、私のためだけの彼なりの何か。

「ワシより先にお前が逝くかも知れんぞ、カカカ」
「そんな馬鹿な」
「その時はワシがお前の骨を粉々にして食ってやるからな」

なんでこの人はこんなこと言うんだろう。
本当に彼なしでは生きられない。心臓がギュッと締め付けられて、玄関先で彼の背中に抱きついてしまった。こうされるのはあまり好きではないということは知っていたけれど。

「今日はここに帰るから、夕飯を頼む」

私が回した腕は振り払われることなく、あの温かい手が私の指先に触れた。


※ソフィーさん出現前の作品です。

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