7th day. 帰宅の挨拶はキスで

「おはようございます」
「おっ、おは、おはよう」

週末の休みが明け、またいつもの平日が始まる。

未だに成瀬さんと両思いになれたことに実感がない。結局あれから恋人らしいことがあるわけでもなく、いつものように女子同士みたいにはしゃいで食事をして普通に帰宅した。そしてあの夜のことを反芻しているうちに休日が終わり、気付いたら月曜日になっていた。

いつものように朝の挨拶をしたのに、成瀬さんの方はすっかり意識しているようだ。
やっぱりかわいい人だな。

「今日は10時と15時に打ち合わせです。13時にマトリに訪問予定なのでちょっとタイトですね。10時までにマトリ用の資料を確認してもらえれば12時までにコピーしておくので」
「……」
「成瀬さん? あ、しょ、所長?」

所長がぽかーんと口を開けたまま私を見るものだから、ちょっと心配になって肩を叩いてみると意識を取り戻したように私をじっと見つめた。

「大丈夫ですか?」
「おはよう」
「え、はい、おはようございます」
「いい天気ね?」
「そうですね」

朝のスケジュール確認なんてなんにも聞いていなかったかのような会話に思わず笑ってしまう。まさか所長がこんな風になるなんて。そんなの反則でしょ。かわいすぎ。

青山さんに心酔している時とはまた違った反応。それはきっと、所長の中で私と青山さんが別の所にいる証拠なのだろう。

「所長、かわいいですね」
「……」
「っ、ん」

ぐしゃっと一瞬表情を歪めた所長は次の瞬間私の両肩を掴んで突然キスをした。
本当になんの脈絡もなく、いきなり、それも無言でこんなことするから、思考停止した私はただただ所長のなすがままになってしまう。

毎日見ていたあの綺麗な形の唇についばまれ、舌先が私の唇をくすぐる。条件反射的に口を開いてしまうと、ぬるりとした舌が侵入して歯列をなぞった。

「ふ、あ」
「ナマエの方がかわいい」
「しょ、ちょ」

一通り口内を犯したのち、下唇を食んでわざと音を立てながら離れていく。名残惜しいようなそれどころではないような。
所長は何を考えているの?
そっと下から覗き込むと、ちょっと怖い顔をしていたので怯んで何も言えなくなってしまった。
怒ってるのだろうか。なぜだ。心当たりがないし、こんなに感情の読めない顔をする所長を見るのは初めてだ。

「無理よ~~~!!」
「えっ……」

上手な言葉が出てこなくて無言のままで首を傾げてみると、所長は突然叫んでから私をすり抜けて事務所のソファの上にうずくまった。
突然のキスに続いての突飛すぎる行動に、今度は私がぽかんとする番だ。

「いや、あの……?」
「公私混同しないなんてできないわ、無理よ……」
「えーっと、クビですか?」
「やだ」
「やだって」
「公私でパートナーになりたいって言ったじゃない、嘘つき」
「それは本心ですけど」

ソファの上で丸まってキッと睨みつけてくる所長は、相変わらず少しだけ怖い顔をしていた。顔と声と内容が全部ちぐはぐに思える。なんならシチュエーションもおかしいだろう。月曜日の朝だぞ。
ひとまず落ち着かせようと所長の隣に座ると、所長は素直にそこに座り直して、普段は依頼者や相談者が座るソファに並ぶ。

「ごめんなさい、取り乱したわ」
「ふふ、所長のそういう所好きなんで」

くるくる変わる所長の表情を見るのは嫌いじゃない。
むしろ、私にこんなにも翻弄されるような姿が見られるのは(シチュエーションを抜きにすれば)とても嬉しい。

私が青山さんじゃなくても…… そこまで考えて、その先を言葉にするのはやめた。所長のことは青山さんのこともひっくるめて大好きになったつもりだったけれど、やっぱり所長をひとりの異性として見てしまうと嫉妬や劣等感が芽生えそうになる。

「……はー。アタシ休みの間ずっと後悔してたわ」
「え」
「あの夜、嘘なんかにしなきゃよかった」
「な、なにを……」
「わかってるくせに」

さっきまで狼狽していたのに、今は水を得た魚のように悪い顔をしてソファに私を沈めた。
い、いやいやいやいや。
言いたいことはいろいろあるけど、とりあえず「月曜日の朝の職場ですよ」と、それだけだ。
所長の胸を押し返すと、なんの抵抗にもなっていないと言わんばかりにその腕を掴まれて頭の上にまとめて押しやられる。

「ちょ、ちょ」
「アンタちょっと勘違いしてると思うから言っとくけど、アタシだって随分我慢してたのよ?」
「我慢とは」
「わかれよ」

見下したように笑った所長が私の首筋に顔を埋め、耳元で囁いた声はいつもと違って“男”の声をしていた。それに口調だって。
や、やばい。
こんなのずるい、陥落してしまう。でも職場だし、仕事あるし。理性と感情を天秤にかけるなんて、酷い上司だ。

どうやって抵抗したらいいのか、それとももう抵抗なんかやめちゃおうかな。
ほぼ陥落しかけていると、所長が離れて私の身体を起こしてくれた。

「嘘よ、冗談よ。ちゃんと我慢するわよ」
「また嘘にしちゃうんですか?」
「アンタね……」

呆れた顔で私を見る所長に再びキスをされて、また離れてしまうのが寂しく思い首に腕を回してみる。案外すんなりと受け入れて貰えたようで、腰を抱かれた。

「はい、おしまい」
「……」
「なに不満げな顔してんの、職場よ?」
「ずるい」

さっきとは立場が入れ替わるように、今度は所長が余裕げな表情で私をいなす。こっちは所長のせいでその気になってきてしまったというのに。
とはいえ私も一応社会人だ。チラッと時計を盗み見て現実的にあとどれくらいの余裕があるのか確認するくらいの節度(?)はある。
…………なんと、もう9時半です。

「はっ、もうこんな時間じゃないですか、所長のせいで!」
「なによ、ノリノリだったくせに」
「資料作らなきゃ、まだパソコンの電源だって入れてないのに……」

慌てて立ち上がって衣服の乱れを治しながら自分のデスクに行ってパソコンの電源を入れる。それに倣うようにして所長も自分のデスクについて仕事の準備を始めたようだった。

資料のファイルを開いて最終確認をしたら、1部プリントして所長に確認してもらって……
段取りを考えながらマウスを操作していると熱い視線を感じて横を見れば、所長が肘をついて私を見つめていた。
優しい表情が朝日に照らされていて、その姿はとても美しかった。

「ゴメンナサイね~、公私混同するタイプの上司で。責任は取るから安心して頂戴」
「……今日もご飯食べに行きたいです」
「ランチ?」
「ディナー」
「ふふ、わかったわ」

責任、ってなに。ど、どういう意味。
かわいいくせにこういう時ばっかり大人ぶって余裕ぶって、本当にずるい人。そういう所も好きだけど。
上等上等、公私混同、受けて立とうじゃないか。
こんな試練、あなたを愛する私なら簡単に乗りこなしてみせますよ。

「所長、覚悟してくださいね」
「!」

 

 

after episode…13:00 マトリにて

「え、そこ付き合ってるんですか!?」
「そうよ、だからアンタに忠告よ、ナマエに触んないで」
「いや、触りませんけど」

所長はマトリに到着するなり出迎えてくれた夏目さんに向かって高らかにお付き合い宣言をした。そして私を庇うように立って超恥ずかしい警告までしている。
私はあまりのいたたまれなさに黙って縮こまるしかできなかった。

「はあ~? アタシを誰だと思ってんの、探偵よ。アンタ、ナマエのことタイプでしょ、目付けようたってそうはいかないわよ」
「そうだったのか、夏目」
「ち、違いますよ、って樹さん! そんなことより成瀬さんに彼女ができましたよ」
「え!?」
「成瀬、樹以外にも興味があったとは」

その上失礼な言いがかりまでつけて、私はもう消えてなくなりたかった。騒ぎを聞きつけたらしい青山さんと由井さんまで来ちゃったし。
私との関係をオープンにしてくれるのは嬉しいけれど、これはさすがに公開処刑では……

「やだ~、青山ったら嫉妬してるの?」
「するわけないだろ。随分懐の深い女もいるもんだと感心しただけだ」
「アタシが選んだパートナーなんだから当然よ」
「は!? ナマエ!?」

所長が私の肩を抱くと、青山さんがぎょっとした顔で私を見た。私は愛想笑いで見つめ返すくらいしかできない。もう何も語るまい。私が口を出したら余計ややこしくなりそうだ。

「ちょっと、アタシの彼女よ、見つめ合わないで。呼び捨ても禁止! いくら青山でも怒っちゃうんだから」
「本当に付き合ってるようだな。今までの成瀬なら『アタシもアキラって呼んで!』って怒る所だ」
「やめろ孝太郎、気味が悪いぞ」
「寂しくなりますね、樹さん」
「全然寂しくない」
「どうしたんですかこんな所で騒いで」
「あ、峻さん、大ニュースですよ、成瀬さんに彼女が……」

ああ、どんどん話が広がっていく……
もはや私がそれを止める手立てなどなく、その日のうちにはマトリ中に「あの成瀬の彼女」として名を馳せてしまった。

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