SLY:03

間違いなく、あの日以来俺はおかしくなってしまった。
原因は大体見当はついているけれど、何をどう解決すべきなのかがまるでわからず大学時代ぶりの不眠症だ。

「君、かわいいね。神楽の友達?」
「……ははっ、なにこの人、亜貴くんの友達?」
「羽鳥ほんと勘弁して」

それが俺とナマエちゃんの初めての会話だった。大学を卒業する年の夏。神楽と同じゼミだったナマエちゃんが一緒にいる所に偶然遭遇した。
その時に掛けた言葉は嘘じゃない。ただ、それが他の女の子と比較してどうだとか、ナマエちゃんだけが特別にどうだとか、そういうことは考えたことがなかった。
誰に対してもそうだ。ナマエちゃんがどうとかではなくて、女の子は等しく“そう”だ。どの子もみんなお姫様で、どの子にもそれぞれの王子様がいるはずで、俺はその代役をしているだけ。そう思ってきた。

俺は代役でいい。
俺は王子様になる資格が無い。
資格がないなんていうとやや大袈裟だけど難しい話でも憂鬱な話でも無くて、ただ単純に恋人と関係を築く時間が無い。気力も無い。
自分でも最低な事を言っている自覚はあるけど、要するに「真剣に向き合う気が無いから雰囲気だけ味わっている」だけの話だ。一応「それでもいい」という言質を取った子としか遊ばないようにはしている。

あの日はもともと別の女の子と約束があった。だけど昼間に偶然ナマエちゃんに会ってしまったせいで、俺の中の何かが狂ってしまったのだと思う。
俺の中でナマエちゃんの認識は「女の子」の一人だったのに、久しぶりに街で見かけたナマエちゃんはいつになく輝いて見えた。
もともと大して近くにいたわけじゃないけれど、手を伸ばせば届く所には居た気がしていた。ただ神楽の友達だから。Revelのみんなとも仲が良いし。内輪で揉めるのは面倒だし。そう思ってなんとなく遠慮していただけで手を伸ばせばいつだって届くような距離だと思っていた。
だけど今はもう届かない所に居るんだと、一歩引いた距離から彼女を見てそう思ったのだ。
そして気づいた頃には「早く触れて繋ぎ止めなきゃ」って、居ても立ってもいられなくなってしまった。

二人きりになると少しだけよそよそしい素振りを見せるナマエちゃんを強引に食事に誘って、先約は断った。俺の中にはその選択肢しかなかったから。
その時はどこに繋ぎ止めておくなんて考えてもいなかった。ただ離れてしまった距離を戻したくて。

もし俺に王子様の資格があったなら、もっと何か別の方法があったのかも知れない。でも、王子様の代役は一晩で終わり。次回があったって良いけれど、代役なんだから継続はできない。
俺に主役はできない。
その代わり、一晩限りは絶対にお姫様にしてあげられる。それで彼女がまた戻ってくるならそれでよかった。

――あの日俺が起きるのも待たずに出ていった彼女は、本当にお姫様だったろうか?

離れた場所で背を向けてスマホを弄り、そのままシャワーを浴びて出ていった彼女。去り際すら俺に見向きもしなかった。この間偶然会ったバーでも気まずさのひとつ感じさせなかった。
ガラスの靴どころか髪の毛一本残さないくらい跡形もなく消えていた。

考えがまとまらなくてイライラする。
もつれた糸を解くようにひとつずつ考えていけばいい。

まず、俺は王子様役を全うできなかったことに不満がある。
彼女が満足できていたならあんな態度にはならないんじゃないか。睡眠中の無意識の行動とはいえ背を向けて寝たのはやはり良くなかった。そもそも俺に抱かれたことすら本意ではなかったとか。
不満と不安がごちゃごちゃになっていて、自信を持って「楽しかったでしょ?」なんて言えない。問題はこの状況を「まあいいか」と切り捨てられない場所にいるナマエちゃんが相手だったことだ。

そしてもうひとつ、彼女の距離感に言い知れぬ苛立ちを感じていた。
まるで何もなかったかのように振る舞うどころか、あまつさえ俺の知らない男など連れて目の前で悪びれもなくデートしている彼女に苛立っていた。

なんで俺から離れていくのか。
俺では満足できなかったか。
どうして。
取り繕った笑顔なんかいらない。
あの夜みたいな素顔を見せて欲しい。

休日の昼間からとっぷりと日が暮れるまでナマエちゃんとのトークルームを眺めながら一人きりで考え込んで、ようやくそこにたどり着いて自分で自分に愕然とした。
彼女が俺から離れていったわけじゃない。
俺が彼女に近づきたいのだ。

『ねえ、ご飯行こう』

たったそれだけを送るために、1ヶ月かかった。

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