形容しがたい壁紙。薄暗い照明と、部屋の広さに不適切とも言える必要以上に大きなベッドとテレビ。と、謎のマイク。謎のマッサージチェア。
「こーゆーとこ久々」
「あっそう」
腕を引かれた俺はそのままの勢いでカフェからほど近い人目につかない場所にあるラブホに連れ込まれていた。俺の意思で来たわけじゃないんだし、この場合“連れ込まれていた”ので正解だろう。
ナマエちゃんは率先してホテルに入り、悩む事なくすぐに部屋を選んでそこに俺を押し込んだ。
「座れば」と言われても二人で座ったらぎゅうぎゅうになりそうなソファに座ってしまって良いものか。悩んだ末にベッドに腰を下ろすと、ナマエちゃんもため息をつきながら隣に座った。
「まさかナマエちゃんに連れてきてもらえると思わなかったな」
「あのねえ、来たくて来たわけじゃないんだけど」
「俺は大歓迎」
「馬鹿じゃないの、羽鳥が急に泣かなければこんな所」
涙に気づいていなかったわけではないけれど、そんなことよりもっと大事なことがあったからどうでもよかった。
カフェでこぼれてしまった涙は歩いているうちに乾いた。我を忘れるほどの号泣だったわけでもないわけで、わざわざこんな所に連れ込まなくたっていいのに。
多分、おそらく、俺に気を使ってここに連れてきたのだろう。話したいことを話してもいいし、泣くなら泣くで構わない。ここに来るまでずっと手を引いていてくれたナマエちゃんの言外の思いを感じて素直に嬉しい気持ちが湧き上がる。
「……ありがと」
「別に」
そっけないような返事をしていても、俺を置いていかなかったこと、隣に座ってくれたこと、手を引いてくれたこと。彼女の行動のすべてが当時の俺の気持ちを次々に蘇らせた。
あの頃、君と俺の間に線を引いたことが俺なりの精一杯の愛だったって言ったら、君は信じてくれるだろうか。
傷つけるのが怖くて、傷つくのが嫌で、見てみぬふりをしていた俺を情けないと笑う?
笑ってくれるならまだマシか。
気持ち悪いって、もっと離れる可能性もあるよね。
「ごめ、ん、なんか、ごめん」
「別に」
一度口火を切ってしまった涙腺は予想以上に脆く、少し悲しいことを考えたくらいですぐに決壊してしまった。
さっきみたいにたらりと垂れるくらいの涙ならまだ多少は綺麗に見えたかも知れないけれど、ぽろぽろ溢れ出した涙はもはや俺の力ではどうしようもない。まさか俺のハンカチが男の涙を拭う日が来るとは。しかも自分の。
ナマエちゃんは口をつぐんだままずっと隣に座っていた。
「俺、ナマエちゃんと離れたくないや」
「え」
今日までごちゃごちゃ考えたけれど結局俺の欲求はそれしかないのだ。
ナマエちゃんのこと、大事にしたかった。大事にしたかったけど、それで離れてしまうのが辛いことだと知ったのは今更で、焦って先に身体を繋げた後に気持ちに気づいたって遅いよね。どう挽回しても格好つかない状況だし。場所も場所なら顔も顔だし。
やっぱ、せめて笑ってくれないかな?
「どうしたらずっと一緒にいてくれる? 友達ならいい?」
できるだけいつもの雰囲気で言いたくて笑顔を心がけてそう問いかけると、カフェぶりにまじまじ見たナマエちゃんの顔は泣きそうだった。
……やっぱり俺じゃ駄目かな。泣かせちゃうんだ。本当は君の王子様になりたかったな、なんて、歯の浮くような台詞が浮かんで消えた。
そんな顔させたかったわけじゃないんだよ。
一瞬躊躇したけど、でもナマエちゃんの涙を見る方が嫌で、手を伸ばしてナマエちゃんの頬に触れてそっと撫でた。
これ以上近づかないから離れないで欲しい。目の届く所からいなくならないで欲しい。ただそれだけなんだよ。
「友達でいたいな?」
「そうだね、私もそれがいいと思うよ」
「……うん、ありがと」
「じゃあ、私帰るね」
「送るよ」
「……」
帰る、と言ったわりに動く気の無いナマエちゃんは、じっと俺を見て泣きそうな顔をもっと歪ませる。何かをこらえるように下唇を噛んで俺を睨んだ。
「羽鳥」
「ん?」
「友達として、また今まで通りで、みんなでご飯に行ったりして、……いつか私も結婚したりすると思うけど、そしたら」
「待って」
自分でもひくほど手が震えていた。いくら室内とはいえ真夏にこの鳥肌。背筋が凍るような気持ちですがったのはナマエちゃんの両腕だった。
白くて柔らかい二の腕に俺の指が食い込む。
「何?」
「ナマエちゃん結婚するの?」
「そんなの、するでしょ、いつかはきっと」
そうだよね。いつかは、するよ。結婚だってするし、もちろん、誰かに恋だってする。
この世のどこかにナマエちゃんの王子様がいる。本物の王子様の隣でならあんな悲しい顔したりしないのかな。俺ができなかったことを叶えてくれるのかな。
……俺だって叶えたかった。ナマエちゃんを守る存在になりたかった。他の男に渡すために大事にしたかったわけじゃない。俺だって。
フラストレーションに駆り立てられるままに動いたらナマエちゃんの腕を折ってしまいそうで、咄嗟に抱きしめてしまった。力を入れたくて入れたわけじゃない。湧いてくるような力というか重みというか、気持ちのようなものがどっと背中にのしかかってそのままナマエちゃんに縋ったようなものだ。
うなだれた先には彼女の首筋があって、唇にネックレスのチェーンが当たった。
「もう、離したくないんだよ」