この間まで一丁前に『恋する乙女』を自称していた私が言うのもなんだけど、果たして『恋』とは一体どんな感情なのだろうか。
「それは俺のだっつってんだよ猿!」
「目の届く所に置いとく悟浄が悪いんだもんねー」
「ふざけんなクソ!」
「ちょっと悟空、こっちの皿には手出ししないでくださいよ、僕とナマエのですから」
「そっちはいらないからヘーキ」
「それはよかった」
ね、ナマエ。
同意を求めるように微笑んだ八戒が、薄く閉じた瞳の奥で私を捉えた。
そんな彼は今私に恋しているらしいのだけども、それは本当の話なのだろうか。
今まで見たこともないような甘ったるい笑顔を見せてみたり、無意味に私の名前を呼んでみたり、その姿はまさしく『恋する乙女』だった。
私は私で今まで悟浄に恋をしていたとは名ばかり、その実、それが恋だったのかどうか、もはや思い出せない。恋というより、なんだろうか。依存だとか拠り所だとか、それこそ悟浄の求める“家族”としての愛情だったのではないかと、今ならそう思う。
八戒が私を思う気持ちはそれとは違うの?
私がそれを恋だと錯覚してしまったように、八戒も何か勘違いしているのかも知れないのに。あの日八戒は随分ハッキリと自覚したように「あなたに恋をします」と宣言をした。
今までまともに恋愛関係を築いたこともない私が思う恋と、お付き合いした人と二人で一緒に住んでいた八戒が思う恋は、まるで別物なのだろうか。
「おい、ナマエ? おーい?」
「え」
「大丈夫か? 食欲ねーの?」
「あ、はい、うん、大丈夫」
「もうみんな食い終わってるけど」
「嘘!? あー、ごめん、すぐ食べる!」
悟浄に言われて卓を見れば、すっかり空になった皿が山積みになっていた。目の前にある点心を無理矢理口に放り込んでお茶で流し込む。とりあえずこれだけ食べればお腹は膨らむ。残してしまった肉まんは包んでもらって持ち帰ろう。
「あと2時間後には出発しますから、今のうちに各自必要なものを言ってくださいね。最後に買い出しに行ってきます」
店の外で八戒がそう言うと、皆口々に欲しいものを挙げる。それを私が片っ端から記録して八戒と一緒に買い出しに行くのがもはや最近のルーチンになりつつあった。
チップを取り除いて以来メキメキと妖怪パワーが開花した私は荷物持ちとしてもなかなか優秀なのだ。
ジープで待っているという3人を残し、八戒と一緒に街に繰り出す。「デートですね」など余計なことを言うものだから、妙に緊張して手のひらが汗ばんだ。
「この際だからいろいろ聞いても良いですか?」
「ええどうぞ」
「デートと買い出しの違いって何?」
「好意があれば買い出しもデートです」
「なるほど……」
それはもう確実に、明らかに、あなたが私に好意があると。こんなこと聞いたら藪蛇間違いなしだから聞かないけど。
「その、いつから…… あの、す、好きなの?」
「気付いたのはこの間ですけど。うーん、いつからと言われると難しいですね。ナマエだって悟浄のこといつから好きかと言われると難しいでしょう」
「確かに」
「そういうことです。あなたは僕の生活の一部だったので」
恥ずかしい。猛烈に恥ずかしい。
言われてみれば確かにその通りなんだけど、言葉にするとしないとではこんなにも違うのかと思う。それをストレートに言葉にして伝えられる八戒は純粋に凄い。
「最終的にどこを目指してるんでしょうか?」
「僕とあなたの関係?」
「そう」
「どこがいいですか? でもあのまま三人暮らしするのが現実的かも」
意外と建設的というかまともな返事が来たことに少し驚いた。
どうにも八戒が私に恋愛感情を抱いているという事実を受け入れがたく、少し引いた目で見ていた私は八戒のその意見に同意する。だけどそれでは悟浄の立場が…… いや、でも悟浄はそれでいいのかも知れないが。
「とりあえずまずは僕の事が好きだと自覚していただいて、ひと通り致しませんか?」
「何言ってるんですか?」
突然爆弾発言を放り込んでくるので気が抜けない。さっきまでの三人暮らし案はどこへ行ってしまったというのか。
照れと呆れを噛み殺すような酷い顔をしていると、ふいに片手を絡め取られてぬくもりに包まれた。
「ちょっと」
「デートですから」
また何も言い返せなくなるような穏やかな笑顔をこちらに向ける。八戒はずるい。私が何も言えなくなることをわかってやっている。
そう、八戒はずるいのだ。さっきの「好きだと自覚していただいて」っていうのだって、そもそも私が八戒に好意があると知らなければ発言できない言葉選びだ。
もちろん好意と言っても断じて恋ではないのだけれども。だけど、でもやっぱり、私は八戒が好きだから悲しい顔は見たくない。
「僕からもひとついいですか」
「何?」
「どうしてこの間から敬語使うんですか?」
本気でよくわからない、といった表情を浮かべる八戒を見て、これでも一応は押し込めていた鬱憤のようなものが思わず噴出した。
「そんなの恥ずかしいからに決まってるでしょ! 勝手に好きとかキスしたいとか言って! 急に私の八戒じゃなくなっちゃうんだから! 知らないそんな八戒!」
あ。さっき悲しい顔は見たくないなんて思っておきながらいきなり怒ってしまった。
やばいと思って様子を伺うと、八戒は意に介さずクスクス笑っていた。
「あの、すみませんが“私の八戒”とは?」
「あっいや、それは言葉のアヤというやつで」
「今までずっと“私の八戒”なんて思っていたんですか?」
「何度も言わないで……」
まさかそこをクローズアップするとは思わず一気に顔が熱くなる。多分耳まで真っ赤になっているに違いない。
私の八戒、とは、確かに言ったけれども。
「それはその、あの、いつも優しくて、居心地よくしてくれて、……あの帰る場所をずっと穏やかに保ってくれたのは八戒だと思ってるから…… すごくあの、大好きな八戒が私の八戒であって……」
一生懸命“私の八戒”の言い訳をするのに、それが更に誤解を招くような言葉にしかならず、非常に言いづらい。言いづらいけど全部本心なんだもの。
「大好きって言っちゃってるじゃないですか」
「それはそうだけど、うーん、でも恋とか言われてもわかんないよ」
「……僕と手を繋ぐのは嫌ですか?」
「全然嫌じゃない」
繋がった所の大きなぬくもりは、悟浄とはまた違う。だけどそれはそれでまた私の大好きなぬくもりで、湯船に浸かった時のようにゆっくりじんわりと癒やされる。
「キスするのは?」
「……考えたこともない」
「じゃあ考えて」
「…………多分嫌じゃない」
湖の底みたいな深い緑色の瞳と、長いまつげ。きれいな鼻筋。濃い茶色の髪がサラサラと私の顔にかかり、このまま背伸びすればすぐに唇に届く。
こんなに近づいても全然嫌じゃない。きっとキスもできる。キスしたら八戒への好意が一気に“好き”に変わってしまうのがすぐに想像できた。
ずっと昔から決まっていた運命のように恋に落ちるだろう。
自然体で居られて、それでいて心地よくて、優しくて、綺麗な顔で私に「好き」なんて言う。恋に落ちないわけがない。だってもう既に好きなのだから。
私と八戒に足りないのはただひとつ、色っぽい出来事だけ。それは悟浄とも同じだった。悟浄とは成立しない出来事だったけれど、八戒は違う。私が応じればすぐに成立してしまう。
でも、私達がこんなに急速に変わっていくことを、悟浄は知っているの?
「待って」
「……嫌?」
「嫌じゃない、全然嫌じゃない。でも待って」
こうなって以来初めて八戒の悲しげな顔を見た。ついに悲しい顔をさせてしまった。胸が苦しい。
どくどくと激しい鼓動と悲しい顔に挟まれて目の奥が痛む。
「悟浄のことが頭から離れない」
「まだ好きという意味で?」
「違う、悟浄に相談したい」
「ああ…… それは、そうですよね」
私が意を決して伝えると、八戒は思い直したように前を向いて歩き出した。
繋がった手のひらは変わらずに温かったけれど、その日はもうそれ以上楽しむ雰囲気にはなれず、少しだけ気まずい空気のまま買い出しを終えた。