※前夜の後日談
かつて住んでいたアラバスタから遠く離れた街。
ここには砂漠もなくて、緑は豊かだしあらゆる場所に水が溢れた。彼の存在がまるですべてなかったことみたいな街だった。誰にも支配されず、金のにおいも欲のにおいも感じさせない、とてもいい所。
あの翌日、ベッドにはもう彼の姿はなくて、1枚の手紙と私には多すぎる金、それと庭に咲いていた花が置いてあった。
彼からの手紙にあったとおり金を使ってこの街に来て、あの花はドライフラワーにして部屋に吊るした。
もうここの生活にも大分慣れた所。食堂で働くのも、自分で家事をするのも、彼のことを思うのも忘れるのも、みんな慣れた。慣れたけど、毎日が海の底にいるような気持ちだった。
今日も1日が終わる。毎晩窓辺に立ってアラバスタの方を眺めていた。
砂嵐さえ見えない、遠くのアラバスタ。誰もいない真夜中の街からなら、アラバスタが見えるかもしれない。
そんな風に何度思っただろう。
ジャリ。
窓枠に乗せた腕の下に砂粒の感触を覚えて泣きそうになる。そういえば今日は風が強かったな。
掃除しようとして布巾を手にしたものの、その砂粒を払い除けられない。この街に来て、初めてこんな砂粒を見た。
今の私にとって、ただの砂粒でさえ彼の気配だった。そっと砂粒を集めて手のひらに乗せる。黄土色をしたサラサラの砂は、アラバスタの砂に似ていた。
あっという間に視界はぼやけ、手のひらは水たまり。アラバスタに帰りたいわけじゃない。
ただ、クロコダイルに
「チッ」
「えっ……!?」
クロコダイル!?
突如目の前に現れたクロコダイルの姿に驚いて、思わず後ずさりしてしまう。
手のひらの上には砂粒ではなくて彼の手が乗せられていた。私の涙のせいで砂粒でいられなくなったのか。一瞬バツが悪そうな表情を浮かべたものの、また体を砂粒に変えた彼は部屋に入ってきた。
「ナマエ」
「クロコダイル、どうしたの!? なんでここに……」
「脱獄した」
「は、え、うそ、夢みたい」
「ここに長居はできない、最後の確認に来た」
まだ信じられなくて、まじまじと彼を観察してしまう。
私の狭い部屋には不釣り合いな姿。
さっき触れた手がじんわりと温かく、彼が本当にそこにいるんだと、やっと実感してきた。それと同時にクロコダイルの態度に不安が押し寄せる。
「もう、会えなくなる、の……ッ」
不意に不安を吐露した瞬間、クロコダイルの右手が私の首を掴んでギリギリと締め上げた。
呼吸ができない。くい込む指が熱い。
「……お前はおれの最期を見る気はあるか」
「うぐ……」
「おれがどんな姿になっても、どんな別れになっても、最期に付き合う気はあるか」
あの日できなかったことを、今日やろうとしているんだ。
きっとクロコダイルの人生を変えるようなことが、また起きたんだね。私の最期がクロコダイルで終わるなら、本望だ。
「ぁ…あ……ぅ……」
首を絞めあげられて声が上手に出せなかった。
両手をクロコダイルに伸ばしても、その体には届かない。やっと届いたのは腕で、彼の腕を抱きしめた。
次の瞬間体に強い衝撃が走り、ベッドに投げられた事を悟った。怖い顔でこっちを睨むクロコダイルが近づいてくる。
「もう一度言え」
「愛してるよ、クロコダイル」
だから、もういいよ。彼の両手を引いて、自分の首にもう一度押し当てる。
それなのに彼はその手を振りほどいて私の顔を包むように撫ぜた。
「ついてこい」
「え……?」
「これから新世界に行く」
「私も?」
「ついて来ないなら今殺す」
「ついて行ったら?」
「知らねえ、今より長くは隣にいるんじゃねえか」
そんなの、いちいち質問するまでもないのではないか。私の答えなんて、わかっているくせに。
腕を伸ばして彼の首に絡め、顔を引き寄せた。あと少しで触れるか触れないか。こんなに近くに、クロコダイルがいる。
「今死んでもいいけど、どんなに醜くても長くそばにいたいの」
「行くか、行かねえか」
「連れて」
答えを言い終わる前に噛みつかれた。苦しそうな表情でキスをするクロコダイルが愛しくてたまらない。
きっと最後まで悩んだはずだ。役に立たない女を自分の船に乗せることが何を意味するか。みっともない姿になっても、私に執着することを選んだクロコダイル。
久しぶりに絡まる舌の熱が脳まで溶かすようだった。唇を離すのがこんなにも名残惜しい。
「今夜出発だ」