「今度、おれに会いに来て」
ドフラミンゴさんのお願いは、とても簡単なようで難しいお願いだった。部屋の場所は前から聞いていたから、行けないわけじゃない。難しいのはそんな所じゃない。
あの日からもドフラミンゴさんは毎日私の部屋に来た。チュロ屋をしていた頃みたいに。むしろ同じ屋敷(というか宮殿)に住んでいる今の方が頻繁に来ている。同じ屋敷に住んでいれば毎日顔を合わせるなんて当然だろうけど、私はこの屋敷に来て以来一歩も部屋の外に出た事がない。しかも口を聞いたのだって数えるほどしかない。そんな私の部屋に、必ず一日一度以上は顔を出した。
部屋から出なかったのも、喋らなかったのも、すごく特別な理由があったわけじゃない。なにもない所にぽつんと取り残されて、どうしていいかわからなかっただけだった。
元々私はドレスローザの出身ではない。
親も、家も、過去も、何もかも捨ててドレスローザで店を開いた。ドレスローザに来た日から、新しい人生を始めたかった。希望があったわけじゃない。ただ、過去を捨てて自分を上書きできればそれでよかった。
本当の両親が死んだ事、折り合いの悪い義理の父母との生活、大切な友人との別れ、遮断された人間関係、強制された売春、奴隷のような日々。なかった事にしたい過去なんてたくさんあった。
時々イロをつけてくれた「お客さん」からのお金を、庭の隅の黒い石の下に貯めた。お金があればなんとかなると思った。幸い義父母にばれる事もなく、時間はかかったけれど、家を出ても困らないくらいのお金を貯める事ができた。その計画が現実味を帯びてきた頃から、義父母が簡単に追えないように交通の便が複雑で、元いた国より物価が安かったドレスローザに行こうと決めていた。
目標にしていた金額が貯まり、私はいつものように売春に行くふりをして母国を捨てた。けど、いきなり新しい人生を手に入れても、私が新しくなるわけじゃなかった。
悲しかった。
こんなに綺麗な街なのに、私はなんの希望もない。あんな事したい、こんな事したい、あれが食べたい、これが欲しい、そんな望みも何もなかった。それでも生きなきゃって、思っていた。
本当のお母さんとお父さんが残してくれたものは、みんな義父母に売られてしまった。本当のお母さんとお父さんが残したものは私しかないから、生きなければいけなかった。
とりあえず家を借りて、必要最低限の生活必需品を買い揃えた。その日暮らしの生活はできたとしても、生きていくためには当然お金が必要だった。収入源を確保しなければいけない。
この街の人はみんないい人で、良縁があって屋台を格安で譲ってもらったり、広場を借りる事ができた。そうして私はチュロ屋を始めた。初めてお客さんが来た時は嬉しかった。どんな複雑な思いもなくて、ただ単純に嬉しくて、大事にしたいと思った。
それから、私の体で買った屋台を唯一守るべきものと決めた。屋台さえあれば私は生きていけると思った。
あの日、ドフラミンゴさんはあの屋台を「あとで部下に運ばせる」と言った。私がこの部屋に初めて足を踏み入れた日、本当にそっくりそのままあの屋台はそこにあった。
でもあの街はもうないし、帰る家もない。きっとこの屋台をひくことはもう二度とできない。
私、今まで何をしていたんだろう。これから何をしたらいいんだろう。
ドフラミンゴさんは、どうして私を生かしたんだろう。なんでこの屋敷にいるんだろう。
今度こそ過去が全部消えてしまったみたいだった。それなのにいざそうなってみると、何も楽しくない。苦しくもなかったけど、何もなかった。
本当に無でしかなくて、何も思わない自分が少し怖くて、ドフラミンゴさんが神様にも悪魔にも見えて、生きている事自体が幻みたいだった。何かしなければ何も変わらない事は知っていたけど、体が思うように動かなかった。
それで突然ドフラミンゴさんに食事に連れだされたのが数日前だった。
勘違い、じゃなければ。ドフラミンゴさんは私を生かしたいと思ってくれた。
でも、人を信じてはいけない。信じられてはいけない。私は生きられればよかった。悲しい思いはもうしたくない。誰かがそう感じるのも嫌だった。
そうするためには誰かと必要以上に親密になったりしてはいけない。ドフラミンゴさんとだってそうだ。
男女の愛なんて、馬鹿みたいと思っていた。どんな素敵な奥さんや彼女がいたって、金を出して私を買う男なんてたくさんいた。
そんな事私が一番よく知っているはずだ。なのになんで。
「泣いているの?」
「……」
「ここに来て初めてね。今頃寂しくなったのかしら」
「寂しくなんかないです」
モネさんは私の世話係か監視役かを任命されているらしく、寝る時以外はほとんど私の部屋にいた。時々気にかけたように話しかけてくれて、私はそれに応えたり無視をしたりした。
今日も例外ではなく部屋のソファに掛けて本を読んでいた。
「あら」
「モネ、さんは、ドフラミンゴさんが好きですか」
「どうしたのよいきなり。でも、そうね、でなければあの人の部下でいるわけないわ。私は彼を尊敬している」
「そう」
「……あの人は、悪人といわれる人だけど、わるい人ではないわ」
わかるでしょ、と言って、モネさんは微笑んだ。
今までたくさんの人に優しくされたけれど、全部うわべだけ受け取って、あとは受け流してきた。なのにモネさんのそれは琴線に触れるように通り過ぎて行って、今まで汚い感情を押し込めてきた器の蓋を切った。
子供みたいに声をあげると、私の体をモネさんが翼で包んだ。
“いい子ね”
最後に優しい声が聞こえて、酷く安心したように息をつくと、私はいつしか意識を失っていた。