なぜ、おれはナマエとふたりきりになってしまったのだろうか。
あの時は欲望を抑えるのに、あんなに必死だったのに。今までずっと欲望を抑えてきたのに。勢いにまかせて口から飛び出たのは、どう考えてもここから先に進むかどうかの選択を迫る言葉だった。
もう自分で判断のつかないおれには丁度良かったのかもしれないけど、勢いから出た言葉だけに、なんの心の準備もないままだった。
あの日から1週間後の今日、気がつけばおれの部屋を訪れたナマエの腕を引き込んでいた。
「前に、話がしたいっていっただろう?」
「話ならいつもしてました」
「そうじゃなくて」
おれの部屋には一人がけのソファしかない。ナマエをソファに座らせて、おれはベッドに腰かけた。決して狭くはないおれの部屋では、その距離がすごくもどかしい。
一度手を握ってしまうと、また握りたくなる。柔らかい薄い皮膚や、それに覆われた頼りない骨や、温度をまだ覚えてる。
「チュロ屋のナマエじゃなくて、今そこにいるおまえと話がしたい」
「私……」
「おれはおまえと向き合って話がしたかった」
ナマエはおれの言葉を考えこむように俯いた。
チュロ屋のナマエは意識的に作り出していたわけじゃなかったのだろうか。てっきりそうだと思っていた。じゃなければあんな苦しそうな顔してるわけないと思っていた。
そんなことも知らない。けど、そんなことが知りたくて今こうしているんだ。
「実はおれが傷ついてるっていうのは少し嘘だよ」
「え」
「ナマエがおれの前で怒るのは、おれがナマエの特別になった気がして少し嬉しかった」
おれの言葉に一瞬反応したけれど、またすぐに俯いてしまった。
「ねえ、おれの思ってる事、間違ってる? おれの事、嫌いって思う?」
ますます俯いていくナマエの表情は、もうおれからは完全に見えなくなった。前髪で隠れた奥はどんな顔をしているのだろう。
おれはナマエを責めたいわけじゃない。ただナマエの存在を、あらゆる角度からのあらゆる部分を認めたかった。どんなナマエでも見ていたいと思う。どんな背景があったとしても、今のナマエを作ったパーツである以上愛さない理由がない。
「……ぃ」
「なに?」
「もう、わかんない」
絞りだすように吐き捨てた小さな声が、誰かに助けを求めるように消えた。
いてもたってもいられなくてベッドから離れ、ナマエの前に跪いて両手を取った。その濡れた冷たい手におれの体温が移っていく。水源を拭うように頬に寄せても、ナマエは無反応だった。
今、おれはナマエを追い詰めているのだろうか。
ナマエを抱き上げてベッドに放る事なんて、おれにとっては簡単な事だった。いやらしい事を考えていないといえば嘘になるけど、そういうつもりじゃない。もっと近くに居たくなった。
ベッドの上に膝をついて座るナマエは両手で顔を覆い、ひくひくと苦しそうに呼吸をしている。サイドボードに置いてあったタオルをこちらに引き寄せて、ナマエの後ろから抱きかかえるようにして両腕はナマエの腹の前で組んだ。
「ごめ、なさ、い。わかんない、ふつ、う、が、どういうのか、わか、ない」
時折タオルで顔を拭いながら、途切れ途切れに一生懸命おれに伝えようとしているその言葉を、必死に聞き取った。
拒否されるかと思った腕は存外しっくり収まっていて、ナマエはそれに抵抗する様子もなかった。
「うん」
「ド、ドフラ、ミンゴさんのこと、嫌いじゃないれす、でも、ふつうが、なにか、わか、ない」
「うん」
「いつも、嘘ついてるのわかってるし」
「うん」
「ドフラミン、ゴさんにも、うそ、ついて、ごめなさ、い」
「嘘じゃないだろ?」
「でも」
嫌いかそうじゃないかわからないから、と辿々しく続けた。腕の中で小さな肩が震えてた。
「他人のすべてを好きになるなんて無理だよ」
一度涙をこぼしたナマエにとって、おれの言葉はなんの役にも立たなかった。言葉にならない言葉を吐くナマエの言葉を聞き取る事はできなかったけれど、感情を受け止める事くらいはできた。
ナマエの前で組んだ手を解いて頭を撫でると、甘えるように揺れた。
もうナマエの行動にいちいち驚かない。うろたえたりもしない。
少なくとも今のおれは、ナマエにとって特別だと思った。おれがナマエに影響を与える事を許された気がした。
「私、自分がわからない、どれが自分かわからない。ドフラミンゴ、さんの事は、本当は嫌いな所もある、でも」
「うん」
「全部嫌いなわけじゃない」
「うん」
「説明ができない」
「おれだって自分の事なんか説明できない、おれはおれだとしか言いようがない」
「本当に?」
弱々しく呟いたナマエを抱きしめた。きつく腕に抱くと、その華奢さを改めて感じる。
こんなナマエは初めて見た。ナマエをここに連れてきてから、新しいナマエばかり見ている。店に通っていた頃は新しいナマエに遭遇するたびに沸き立つような気持ちだったけど、今は自分でも驚くほど穏やかな気持ちだった。
元々鈍い女だとは思っていなかったけど、思ったよりもずっと繊細で、すぐにこんなにかわいい姿を見る事ができて、興奮していた。
首筋に顔を埋めるといい匂いがした。そこには柔らかい頬の感触があって、ナマエの髪がおれの肌をかすめる。
ナマエごめんね。もう止められないよ。
ごめんね。